写真集から得るもの【森栄喜「intimacy」評】
ずっと気になっていた森栄喜の「intimacy」を手に入れた。
今さらだけど。(笑)
2013年度(第39回)の、木村伊兵衛賞受賞作です。
この写真集は、今ではすっかり一手法として定着した、いわゆるグランジっぽい撮り方で撮った、日常のスナップ。
ウィリアム・クラインあたりを始祖とするならば、1950年代からある特別真新しくもない手法であり、昨今これ系の写真は巷に溢れかえっている。
そして基本的にコレ系は好きじゃない。
「やってない感じを演出したやってる写真」という感じがする。
素直さを演出した素直じゃない写真とでも言おうか。
いい子ぶってるけど腹黒いみたいな。(笑)
この写真集も、写真だけを見ると、そう見えてもおかしくない。
だけど全然そうは見えない。
クリア。透き通っている。
謎にキレイ。
ずっと気になってはいたんだけど、「ああ欲しい」というタイミングがついにきた。
だから手に入れた。
…
写真を「欲しい」と思うなんて、めったにない。
いい写真だな、とか、うまい写真だな、と思うことはよくあるけど、「欲しい」と思うなんて、ほとんどない。
だからこの引力は謎。
ページをめくると、思ってた通りの印象が、そこにはあった。
なにしろ以前に何度も立ち読みしてるので。(笑)
思わず見入ってしまう。思わず引き込まれる。
個々の写真は何ということもない。
何ということもない写真が発する、声なき声。
例えるなら、「ささやき」だろう。
ほとんど何も言ってない。
「何も言ってない」ことが何かを言っている。
何も言ってないからこそ、何かを言っている。
何も言ってないって、最高の純度だ。
言えば言うほど、汚れていく。
言葉を尽くせば尽くすほど、興は醒める。
ちまたに溢れるコレ系が好きではないのは、何も言ってない素振りの裏に、たくさんの「言いたい」が見え隠れするからだ。
ストレートに撮った風のその裏に、数々の打算が見え隠れする。
それはいい写真であるほど、鼻につく。(おれがひねくれてるだけか 笑)
言いたいなら言えよと言いたい。(笑)
むしろそっちのほうがいい写真になると思う。
意図と表現がマッチしてないから気持ち悪いんだな。
確かに写真は素敵だ。意図も結構。
しかし両者がミスマッチなところがイタイ。
汚いなら汚く撮れ。
それでいいじゃないか。
もちろん、森氏の写真にも意図はある。
普通こんな風には撮らないという撮り方でも撮っている。
だけど、そんなことは見事に消えている。
もっと大きな別な何かが、そんなことを見事に消している。
この写真たちは、別に何か言いたいわけではない。
でも、何も言わないことが雄弁に語っている。
きっと撮った人も、何かを言いたかったわけではない。
外に向かって「これでどうだ!」という気配がない。
外なんか何も見ていない。
内を見ている。
静かに見つめている、内に宿る美を。
そしてそれを、丁寧に掬っている。
この写真の純度は、そんな視線の純度だろう。
美に対する敬虔さ。
全てを捨てた時に、全てが得られるという、その実例。
…
この写真集はゲイのための表現だの云々言われますが、ハッキリ言ってそんなことはどうでもいい。
そんな無駄な機能を負わせて、この写真集を貶めるなと言いたい。
ただ美しいんです。
ただただ美しい。
無駄な言質で汚さないで欲しい。
この美しさは守りたくなる美しさ。
だって他に見ないから。
見たことないから、この美しさ。
無関係な赤の他人が、思わず「触るな!」と声を荒げてしまう美しさ。
手法とか、写真上の意義とか、そういうことは霞んで消える。
何も言わないことによって、美しさだけが残る。
ただただ美しい。
それだけ。
こんなクサい言葉普通吐きます?
無関係な赤の他人に、クサい言葉を吐かせる写真集。(笑)
かといってオススメはしませんよ、もちろん。
上原がすげーいいって言うから買ってみたけど、全然ピンと来なかったってなっても、責任取れません。(笑)
これは写真じゃないので。
これは「美」です。ただの美。写真じゃありません。
何も言いたくなくなるんです。
この美の前に、説明は野暮。
何も語ってない写真について何かを語るなんて、野暮の骨頂。
言葉はいらない。
ただただ、全てを忘れてしまえる写真集。
美が全てを洗い流し、全てがクリアになる、透明になる。
正直森さんがどういう人か知らないし、被写体が誰かも知らないし、どういう状況で、なぜ撮られたのかも、何も知らない。
だけど、奇跡は確かに、ここにある。
それだけでいい。
何も知らなくていい。
全ては霞み、消え去る。美だけが残る。
それだけでいい。