「いいね問題」に終止符を打つ
インスタで「いいね」の数が見れない仕様になったりもしましたが、いかにも我々は、いいねの数が気になって仕方がないですね、ハイ。
いいねの数はつまり他人からの評価であり、その写真の価値を裏付ける客観的な指標とも言えます。
そんな大事な数字を見れなくしてしまった意図は、「数値に左右されることなくコンテンツそのものを楽しんでほしい」とか、「過剰ないいね獲得競争抑制のため」などとされています。
いいねに左右されることが「弊害」だというのです。
いいねの当否や意義は別として、これほどまでにいいねに左右されてしまう我々の精神構造って一体何でしょう。
これはもう、ただ単に一アプリの枠を超えた、人間の本質に迫るものがあります。
いいね過当競争を探ってみると、現代社会の深層が見えてきます。
いいね過当競争の弊害
「いいね」は獲得する側にしてみると、ひとつの「ゲーム」のような感覚もあります。
たくさん点を稼ぐのが面白いという、ゲームです。
そしてそれは、コンピュータ相手に稼いだ点ではなく、実際に「人」が評価してくれたという点が、エキサイティングなところです。
単純に褒められれば嬉しいです。単純に人に認められたら嬉しいです。
この麻薬にも似た気持ちよさ。
それがいいね獲得の過当競争を増長し、インスタ映えのために他人の花壇を踏みにじるとか、注文した料理を写真だけ撮って食べないという、行き過ぎたいいね至上主義を生む結果となっています。
最初に見た通り、今回のインスタ側によるいいね非表示の意図は、それらの抑制という点も大きいわけです。
いいね獲得競争が社会に害をもたらしているとあっては、運営側もだまっているわけにはいきませんから。
いいねが欲しい理由
「インスタ映えのためにそこまでするか?!」と、外野は思うかもしれませんが、実際にそこまでしているわけです。
であるからの、今回のいいね非表示措置です。
逆に言うとですよ、そこまでしていいねが欲しいのです。認められたいのです、他人に。
そこをさらに逆に言うとですよ、普段あまりにも認められていないのです。だから認められたくて仕方ないのです。
いいね問題を掘り下げていくとつまり、あまりにも大勢の普段認められていない子たちがいるということです。
欲求不満なんです。その捌け口がたまたまインスタに向いたということです。
こう考えると、一概にその子たちを責めるわけにもいかなくなります。
というか、普段責められてばかりだからこそ、病的に「いいね」を求めるのです。
責めることは何の解決にもならないばかりか、火に油を注ぐようなものです。
インスタに限らない「いいね病」
これはインスタに限った話ではないですね。
病的にゲームにハマって生活に支障をきたす子や、麻薬に似た効果を得るために風邪薬を大量に服用して中毒になってしまう子もいます。
これは「バカヤロウ何やってんだ」で済む話ではありません。
「なぜそうなってしまうのか」「なぜそうならざるを得ないのか」
ここの理解が不可欠です。
そして浮かび上がってくるのが、「あまりにも認められない社会」です。
本当に求めているもの
ただ単に、認められたいのです。
やってもやっても、誰も認めてくれない社会。
でもインスタなら、やったらやっただけ、誰かが認めてくれる。沢山のいいねが付く。
社会から目を背け、インスタにのめり込むのは、必然の構図です。
ただ一言、「ありがとう」「よくやったね」と、実社会でリアルに「いいね」を押してあげれば、インスタでのいいねは必要ないのです。(たぶん)
子どもたちは(大人たちも)実社会で押されないいいねを、インスタの中に求めているのです。
ですからみなさん、そのワンクリックを言葉に変えて、実際にリアルに、子どもたちに(大人にも)いいねをあげてください。
「ありがとう、今日もよくやったね」と。
どこの誰とも知らない人からのワンクリックよりも、目に見えるあなたからのリアルいいねは、きっと100倍の効果をもたらすことでしょう。
一億総クレクレ社会
さて、いいね欲しい病に見る現代社会の深層心理をチラ見したわけですが、何のことはない、「私のこともっと認めて!」という至って当たり前の衝動がそこにあるだけです。
誰も私のことを認めてくれないから、インスタにそれを求めているだけです。
「だって認められるほどの人じゃないじゃん、もっと頑張らないと」
なんて大人たちは言うかもしれません。
本当にそうでしょうか?
その子に一体何を求めているのでしょうか。
ノーベル賞でもとらないと存在価値がないとでも言いたいのでしょうか。
そう、「求めている」のです。
その子が何か偉大な結果を出してくれることを、素晴らしい成果を上げることを。
欲しい欲しいと言っているのは、実は大人たちです。
「求める」から「あげる」へ
我々は今、時代の転換点に立っています。
求める時代から、あげる時代へ。
求めるのは「無い」から求めるわけです。
求めるとき人は、貧しいです。なぜなら「無い」から。
だからこんな飽食の時代でも貧しいのです。
腹は空かせてても近所で助け合った昭和の頃のほうが、まだ豊かだったのです。
そしてあげるとき人は豊かです。なぜなら「ある」から。
何をあげるかは問題ではありません。
「あげる」という心持ちが、すでに豊かなのです。
何も高価なものをあげなくてもいいのです。言葉でも、真心でも、あなたは無限に持っているではありませんか。
「あげる」という豊かさ。
インスタが正常に機能する日は、そう遠くないのです。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?