見出し画像

ヨコハマたそがれ

大都市こそ「よそ者」の天下だ。

テレビや映画などで「東京イメージ」を語ったり、創ったりしてきた人たちの多くも、高校生までは東京以外の街や町で育ってきた人だ。

つまり、彼らが思い描いてきた「東京イメージ」は、東京に育った生活者が描いたものではない。「東京の生活者はこういう生活をしてるんじゃないかな」っていう「想像」が主たるところだ。彼が映画監督なら、俳優さんたちは、それらしくセットされた背景の中で見事に「監督さんが思い描いた東京」を演じ切った。そういう作品たちが世に出て、レイヤーのように重なって「東京イメージ」を形づくる。

今の東京は、そうしたレイヤーとして重ねられて創造されたもの。だから、下町こそ、現実とは、ほど遠いものだ。

さて、ヨコハマ。

ある時期から、この街は「アーバン・デザイン」に着目し、景観からこの街をデザインしはじめた。鋪道にも「この街らしさ」を象徴するというタイルを嵌め込んだり、映画やドラマに描かれてきたヨコハマをさらに肥大化させていった。

顕著になったことは80年代からのことだ。

40年ほど、市役所とつきあってきた僕は、こういう「アーバン・デザイン」を主導してきたお役人たちの顔が浮かぶ。ある人は東京都に近い団体から派遣されてきた人。彼の手足となったのも、彼が全国から集めた都市計画志向の大学生たち。僕は、このパーティで発言力があった人で、高校までをこの街で育った人を一人しか知らない。

例えば、山下公園からフランス山へ。長い距離をペデストリアン・デッキ(歩道橋)で結んでしまったので、周辺の店舗は消えて行った。明らかに客数は減った。山下橋のたもとで海を見ながら珈琲を飲むことができた喫茶店も消えた。水町通りの雑貨屋も消えた。

こういうことを 彼らはさして気にせず景観づくりを続けた。
彼らにとって、ヨコハマは「遠景」であって、その街に過ごすという感覚は乏しかった。彼らはヨコハマにサウダージな感覚を持つことがなく、業務として接する経験しか持っていなかった。

気がつくと中華街も、空間偏重な中華ディズニーランドになっていた。中華街を後にする店も少なくなく、一方で、港近くでは一番人気だったお寿司屋さんも「こんな街で寿司屋もねえだろ」と引っ越していった。

(1980年代、満珍楼の林兼正さんの発言力が増すまでは、中華街も、もっと普通の商店だった。本屋も珈琲専門店もあり、江戸清も一般的なフツウのお肉屋さんだった)

一日中、店の前に籐椅子を出して、ときどきは子どもの相手をするおじいちゃんもいなくなった。跡取りたちも、たいていが留学し経営学などを学んで減価率を気にするようになり、ビジネスな多店舗展開を目指すようになった。料理も品数勝負のコース料理ばかりになって、店ごとの特徴は消えていった。

今のヨコハマ港を歩いていても哀しくなるばかりだ。
僕が知っているヨコハマは無いに等しい。

しかも、今のヨコハマから「あした」を見出すのは難しい。
懐かしくもないのに、未来を垣間見せてもくれない。

最悪だ。

たそがれ【黄昏】
①〔夕方は人の姿が見分けにくく,「誰(た)そ彼(かれ)」とたずねるところから〕夕方の薄暗いとき。夕暮れ。「―の町」 →かわたれ
 人生の盛りをすぎた年代をたとえていう。

今のヨコハマ、まさにそんな感じ。しかも「たそがれ」の味わいはない。ツルツルのファスト風土だ。

そして、どこまでが騙り(かたり)なんだかリアルなんだか。

なんとも中途半端な大都市になってしまった。

あゝ、ヨコハマたそがれ。