誰かのバスケットボールを理解することと、自分を表現するということ

 バスケットボールを教えてもらう、ということは、その人のバスケットボールの捉え方を学ぶ、ということに他ならない。

 監督やコーチが思い描く”モヤモヤ”した幻想的なイメージでしかないバスケットボールは、そのままの状態であればただの絵空事でしかなく、その思いは誰にも伝わらないまま、表現されないまま、心の中でもやもやとしながら有耶無耶になって霧散する。そんな状態はよもやよもやだ。

 世の中には様々な解釈の方法が存在するように、AをAだと捉える人もいれば、Bだという人もいるし、逆説的にZだという人もいる。
つまり何かというと、バスケットボール一つとってみても、様々な解釈があるということだ。

 具体的に言えば、パッシングを多用し、オフボールの動きが重要だとするコーチもいれば、ドリブルでの1on1で相手をやっつけたり、オンボールPnRを多用しスペーシングが重要とするコーチもいる。はたまた、ディフェンスこそ全てだとするコーチもいるだろう。

 一人でやる個人競技であれば、個人におけるその解釈は簡単になると考えている。自分とコーチの考えが合わなければ、自分の考えと合うコーチのところへ行けば良い方向に行くことが多いだろう。うまく行かずとも、少なからず納得感は得られるはずだ。

 しかし、バスケットボールのような団体競技であれば、状況は異なる。自分とコーチの考えが合っていたとしても、他のメンバーとも共通理解が必要になるからである。そうしない限り、個々人のバスケットボールが”自由"に繰り広げられ、そこにはモヤモヤよりも激烈なカオス(混沌)だけが残る。

 カオス、とは無秩序とも言われる。
 文字通りだ。何一つ約束がない。
 集団であるのに、それらを束ねるものが何一つない、或いは束ねる力を持たないことを意味する。

秩序なき世界に自由は訪れない。
そこにあるのは自我(エゴ)である。

 我ながら良いフレーズだ、と思いながら書いている。
(もしかしたら、どこかで読んだものを知らずのうちに引用しているだけかもしれない)

 だからこそ、選手はコーチの”その淡い幻想”を具現化するべく、5人で、コートでプレーをする。

 仮に選手たちがその幻想をパーフェクトに表現できたとしたら、コーチの力量比べのゲームとなるだろう。より洗練された、より即時対応された、そんなプレーの応酬がコート上で繰り広げられることだろう。

 しかし、そこに選手の個性はあるのだろうか。求められることを表現する。それもとても難しい。だから、どうしても求められることを達成することでいっぱいいっぱいになってしまう。

 しかし、それをクリアするだけで良いのだろうか。知らず知らずのうちに、個性の伸長を阻害するようなシステムや声かけになっていないだろうか。ずっとそれを考えている。

 僕自身の考えとして、「集団があっての個」ではなく、「個があっての集団」であって欲しい。だからこそ、尖った選手が丸くなってしまうことだけは避けたい。

 バスケットボールの本質を漏らさず盛り込み、それでいて、選手の創造力や判断に委ねる、自由なバスケットボールを目指す。

 ”自由な”判断は難しい。原則を守りつつ、個性を発揮する。

 しかし、社会に出てもそれが求められるのだ。マニュアル通りの人生ほどつまらないものはない。ゴールはあっても、やり方なんて千差万別だ。

 だからこそ、面白い。

 そう、思う。

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松本大輝
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