幸せ者の貴方には
「幸せ者の貴方にはきっとわからないだろうけど」なんて前置きと共に不幸話を聞かされる事があるけれど、あれはその"幸せ者と不幸せ者"との差異を埋めてくれるくらいにはストレスだと感じている。
幸せに生きてきた人間が、自分は不幸だと思い込んでいる人間に対して常に細心の注意を払い、気を遣って生きなければならないのであれば、その幸せ者は本当に幸せなのだろうか。
それに、幸せ者側が気を遣って生きるだけならまだしも、不幸者は不幸を武器に理不尽を振り翳す。そんな自分勝手が通用するような魔法の力を手に入れてもなお、不幸者は不幸なのだろうか。
そもそも幸せ者が人生の中で何をピックアップして自分の人生を幸せにしているかや、不幸者が自分の人生の中で何をピックアップして自分の人生を不幸にしているかだって、これは計り知れない。
側から見たら幸せそうなあの子が「自分は不幸だ」と嘆いていたり、はたまた側から見れば可哀想なあの人が「自分は幸せ者だ」なんて微笑んでいたりする。もちろん側から見ては全ては解りきれないけれど、少なくとも彼らはそれぞれの尺度でそれぞれに物事を測り、それぞれの解釈でそれらを消化していく。
だから自分の方がとか、誰かの方がとか、そういうのは関係の無い話だけれど、関係の無い話なのだから、誰かが誰かに自身の不幸を強要する事はマナー違反なのでは無いかな…と。
そして、その逆もあると私は考えていて、
どうやら人には自分がちょうど心地良い幸福感とか不幸感みたいなものがあるようで、いくら今より幸福とされている方向へであっても、その丁度良い場所から引っ張り出される事はストレスに感じるらしい。
「きっとこの方が健康的」とか「貴方のため」なんて思って引こうとした手を振り払われた経験は多くの人が持つのでは無いだろうかと思うが、それはもしかしたらこの慣れ親しんだ"心地良い場所"から引っ張り出されることへの拒絶だったのかもしれない。
もちろん、一概にそうだとは言いきれないけれど。
きっとすごく多くの人が現状から変化が起こる事に不安や恐怖を感じる。
それは自信の不幸を大声で嘆くあの子も一緒で、どんなに自分は不幸であると語っても、自分の武器にもなるその不幸を手放す事は怖いのだ。
"あの子"なんて言い方をしたけれどきっと私もわからない。
例え不幸を盾に詰られても、この幸福を手放せば自分がその立場に立てるとしても、きっと現状を手放す勇気なんてないのだ。
そんな私たちの誰が幸せで誰が不幸であろうか。