良い人ってなんだ
自分に自分が納得出来ないと潰されそうで、まともなフリをして生きることもそろそろ癖の様なものだ。
「正しければ」「優しければ」大きく非難されることは無いし、何より自分を安心させてあげられるから自信を守るつもりで多くを飲み込んできた。
これが私の為の戦い方だった。
この方法はものすごく他者から舐められるし、損をしていると感じることも多い。
それでも自分の低俗さに苦しむよりは、他人に迷惑を被られた気になる方が私としては楽だった。
思っていたよりも世の中は理不尽だし、大人だって子供の勝手な期待よりもずっと自分勝手に生きていた。
少し前に母が話していた「お母さんはね、極端な考えはあまり持たないタイプだから、特別嫌われることも無いけど、特別好かれることもないの。おばあちゃんってすごく極端な人だから、一部の人にはすごく嫌われると思うけど、一部の人にはすごく好かれていて、『良い人だ』『良い人だ』って言われるのよ。強く共感し合える相手っていうのがそういう人にはいるの。」という話には、すごく共感できるし少し寂しくなる。
私もきっとどちらかというと母側に近い。
物事の筋は例え不自由が多少生じようができる限り通すべきだと考えてきたし、敵味方よりは物事の公平性や客観的に見た正義の様なものを重視するべきという感覚がある。わかりやすく、『間違っていなければ強く否定はされないし、強く他者を傷つけない(気がしているだけ)、そのおかげで自分も大きくは傷つかなくて済む』と思い込んでいる。
そして、私たちには良くも悪くも敵も味方もいないのだと思う。(敵も味方もいないから正しくいようとか優しくなりたいとか思うのか、そういようとするから敵も味方もいないのかは知れないが)
それはホッとすべきことなのに、少し寂しく感じる部分があって、それはきっと幼少期からの教育や青春時代の憧れなんかに味方の存在が色濃く描かれている事や、大人になった今だって世の中には敵味方の概念が至る所に存在していて、それぞれがどうやら堅い絆で結ばれているように見えてしまうからだろう。
だけど寂しさだけでは敵を作る材料としてはあまりに不十分で、今もただそいつとの付き合い方に悩み続けている。
もし本物なら敵を作ることに十分も不十分もないのかも知れない。
そうして私はなれもしない誰かを羨んだり、憧れを抱いたりしている。
今日はどうしようも無い話と悪態でした。笑
共感できるなーとか、自分はどっち側だなーとか考えながら読んでいただけたら嬉しいです。
敵でも味方でもない愛おしいあなたへ。
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