失われた「十五の夜」
アクセサリーを作っているときは、邪魔にならない程度に音楽をかける。
その時に、なんとなくYoutubeで、尾崎豊の「十五の夜」を聞いていた。
作業中は、普段耳に入らない歌詞なのに、「十五の夜」は、あまりにも露骨で、言葉が耳に入ってくる。
気になってしまったので、手を休め、歌詞を文字で追った。
15歳の少年が、学校で煙草を吸い、そして、放課後には、バイクを盗み、暗闇を駆けてゆく。
明らかな非行の歌である。
この曲がリリースされたときには、まだインターネットがない。
そんなインターネットのない時代は、過去を調べられることも、炎上をすることも少なかった。
現在はどうだろうか。
目立ちたいと思って軽い気持ちでやった行動が、インターネット上にアップされ、大炎上し、その後の人生も台無しになってしまった少年を、僕らはニュースなど知っている。
自由に言葉を吐くことさえ難しい時代になってしまった。
僕のような取るに足らない文学者も、ビクビクしながら、文字を書いている。そのために、描きたい、作りたいテーマをボツにしたことは、何度かある。
「表現の自由」が保証されるべき、立憲国家のはずだけれど、いつの間にかに、その「表現の自由」が失われつつあるような気がしてならない。
僕は、この間「男らくしないな」と言ったら、
「それは、今は使ってはいけない言葉です!」と、怒られた。
心の中で、「使ってはいけないという発言こそ、民主主義を否定し、平等な社会を壊す思想だ」と苦々しい気持ちを、かみ殺していた。
別を昔を懐かしむつもりはない。
僕も、未来を見ていたい。
その未来が、自由であったらいいなって、願うばかりです。
僕のような表現を生きる希望としている人こそ、自由に泳げる水が欲しい。
その水は、澄んでいるよりも、少しぐらい濁っている方がいい。