最後の瞬間はどうありたいか問う
そろそろ6月ですね。早いです。ブログだいぶあいてしまいました😂
6月といえば紫陽花ですね。
何時だったか紫陽花の散り際が
「(生に)しがみつく(花)」と表現されると知ってから、枯れた紫陽花を見ると切なくなると言うか狂気を感じるようになりました。
盛りは終わったのに形はそのままに色を無くしたまま、ただじっとそこに佇んで居る。
なので枯れた紫陽花と目が合うと何か言いたげでこちらを見つめてくる感じがドキドキします。
来年にはまた花を咲かせると分かっていても。
椿は(ボトリと潔く)落ちる、と言いますがお花の最後もそれぞれ…人間と似てるんだなと思うと親近感を感じます。同時に人間の儚さも感じます。
個人的には牡丹のくずれる…という表現もうっとりします。何が言いたいかって…こんな状況をたった一言でドラマチックに表現できる日本語って美しくて素晴らしい☺️ってことです。
果たして私はどんな散り際になることやら。
ちなみにお花の散り際はそれぞれこう表現されるそうです。
「散る」 桜
「こぼれる」 梅
「落ちる」 椿
「舞う」 菊
「しぼむ」 朝顔
「くずれる」 牡丹
「しがみつく」紫陽花
同じ花でも最後は全然違うもの。
桜なんかは散り際もなお美しく人の目を奪う…寧ろ散り際の風に流れていく様を楽しみにしている部分もある。そして何故か悲壮感は感じられない。散って地面に溜まっている姿さえ可憐なイメージ。そしていつの間にか流れて夢みたいにあっさり消えていく。
紫陽花はきっと人間臭い感じで特に執着という部分で人間の生き方に似てるからこそゾクゾクさせられるんだろうなぁ。
ということはまだまだ私色々執着がありますね😂
どのように散るとしてもまずはこの日々をひとつ、ふたつと積み上げて後悔のないようにしたいものです。
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