善悪の心
善悪の心について思う事。
善になろうとするのは悪を憎んで悪を苦しめる事にならないだろうか?
悪を苦しめる事が、悪だと思うと善といいながら悪でもあると気付きます。
悪を否定するのは自己否定になるのです。
そもそも何を善として何を悪とするのかの基準が人によって異なるのです。
善も悪も人が想像しているだけで同じ認識をした人々が、それは悪人だと決めれば悪人になるのです。正義の味方が、悪人をやっつける物語は痛快ですが、真実が悪人ではない人が、善人だとわかっても一度認識した事実から抜け出す事はできないのです。
善人を悪人だと誤認識する事は怖い事です。善悪の基準が「心の幸せ」に気づくか気づかないかであればどうでしょうか?
例えば、実の子どもを捨てた親は「心の幸せ」に気づいているのでしょうか?離婚した母親が、自分の収入だけでは子どもを育てる事はできないと判断して子どもの幸せを願って施設の前に捨てるのは、誰が「心の幸せ」に気づいているのでしょうか?
子どもと一緒に死んでしまうという選択はもっと悲しい選択です。離婚しても養育費をもらって子どもを育てる道が無かったのでしょうか?
「心の幸せ」に気づかず、うわべの幸せを求めた結果が「心の幸せ」を気づかせなくしているのです。
自分の親に育てる手助けをお願いできなかったのでしょうか?
不幸な事になっても「心の幸せ」は生まれた時から人の中にあるのです。
「心の不幸」はありません。「心の幸せ」に気づかない事が不幸だと思ってしまうのです。善も悪も人の想像の産物です。誰も悪事を働きたくないのです。離婚する事は善でも悪でもなく「心の幸せ」に気づいた結果であれば幸せだと思うのです。偽りの幸せにならないように「心から幸せ」だと気づけましたか?
自分の中の仏様」に問うてください。この決断が「心から幸せ」だと思う事でしょうか?我慢したり、悲しんでも、苦しくなるとわかっていても「心の幸せ」を気づく事ができましたか?
「心の幸せ」に気づかず判断していませんか?
「心の幸せ」は他人からは見えません。感じることもできません。もちろん伝える事もできないのです。
「心の幸せ」に気づいたら何も恐れる事はありません。
「心の幸せ」が気づけなくなったならば「自分の中の仏様」に尋ねれば良いのです。自分の中の仏様に尋ねたならばすぐに「心の幸せ」に気づく事ができます。なぜなら「自分の中の仏様」は自分が生まれた時から「心の幸せ」に気づく事を約束してくれているのです。
「心の幸せ」は自分の中の仏様を信じようと信じまいともっと生まれてきたものです。
「心の幸せ」に気づいても浮かれたりはしゃいではいけません。
冷静になってじっくりと感じてください。一時の幸せは「心の幸せ」ではありません。「心の幸せ」は死んでも感じる事ができるのです。
善人も悪人もありません。「心の幸せ」に気づくか気づかないかです。「心の幸せ」は生まれる前から死んでもあるのです。
宇宙の誕生と共にあるのです。
知らんけど。