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【自己紹介】365日ブログを更新して生活費を稼いだ40代主婦です

はじめまして、ぱんこねと申します。

お金に困っている人のためになる記事を書こうと、noteを始めてみることにしました。

今でこそ月間40万回閲覧され、生活費をブログで稼げるようになった私ですが、もともとはただの主婦でした。

ゼロから始めて、個人事業主になる中で「質の良い情報を取捨選択することが、結果への近道」ことを学びました。

これからnoteで “私が稼げるまでに得た知識” を余すことなく共有していくことにします。

最初なので、自己紹介からしていくことにしますね。

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365日毎日更新したブログで生活費が稼げるようになった
ぱんこねの自己紹介
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簡単なプロフィールとしては

・一部上場企業の営業2年目で最優秀社員賞
・休みなく働き漬けで3年目に鬱になり退職
・ブログ365日毎日更新をして1年目でトータル240万稼ぐ
・結婚して娘が産まれるも、先天性の病気で生死をさまよう状態。3歳でようやく体調が落ち着きはじめたけれど、病院につきっきりだったため仕事はできず、生活はリボ払いに頼りきりで800万の借金をつくり自己破産
・ゼロの状態から、以前つちかったブログ術を現代に合うように考え直して再開したところ、2ヶ月目で3万、3ヶ月目で7万、4ヶ月で10万達成。
・友人にブログ運営法を教えると、同じく4ヶ月で10万達成。再現性があることが判明。
・お金に困っている人にこの方法を教えようと活動しはじめる←今ここ

といった感じです。

わたしについて

私は東京都下の出身です。ジブリの「平成狸合戦ぽんぽこ」「耳をすませば」の舞台がまさに生まれ故郷と言えば分かりやすいでしょうか。山を切り開いて作ったので、自然の緑が多く残っている街です。近くにはサンリオピューロランドがありました。

幼児期はそんなニュータウンの高台にある団地に住んでいました。

小学生の頃は外で遊ぶのが大好きな子どもでした。友だちとブランコ鬼をしたり、秘密基地を作ったり、虫取りをしたり。男の子みたいな遊びをしていたなという印象です。

ただ、秘密基地の入り口を綺麗に整えたり、壁に木で編んだオブジェを飾ったりして、自分の居場所を作ることはこの頃からこだわっていたなと思います。

幼稚園から始めた習い事は、習字とスイミング。水泳は高校まで続けることになったし、習字をやっていたおかげで綺麗な字を書けるようになったので、親には感謝しています。

ただ、スイミングは通わせてもらっていたのに初めは大嫌いで、いつも「おなかが痛い・・・」といって逃げていた記憶があります。学校のプールの授業では、みんな深い25mプールで泳いでましたが、私だけは小学校4年生まで水に顔をつけることもできなくて、隣の浅いプールで水に慣れる練習をしていました。

小学校5年生にやっと5メートル泳げるようになって、そこからは自分でも驚くほど水泳が好きになります。6年生で4泳法(バタフライ・背泳ぎ・平泳ぎ・自由形)を泳げるようになって・・・結果水泳は高校まで続けることになりました。思ってみれば水泳は、諦めずにやり続けていれば結果が出ることを身をもって学んだはじめての経験です。

中学生になって、部活と委員会活動に明け暮れます。中学は水泳部がなかったので、テニス部にはいりました。プールの隣がテニスコートで、暑い時はプールで泳げるらしいという軽い勧誘に誘われて(笑)。

通っていた中学校は、できて5年目の新設校で対外試合がなかったので、和気あいあいと仲間と楽しく過ごしたのは良い思い出です。3年生では部員100人のテニス部の部長になり、文化祭実行委員会では委員長をしていました。

そして、高校時代。親がシステム系の会社に勤めていたこともあり、パソコンが家にあったので、暇さえあればパソコンに触っていました。高校のクラスのホームページを開設したり、知らない人とチャットをしたり、日記を書いたり、とはじめてのことを探求するのに夢中でした。

思えば、その頃からパソコンを使って「トライアンドエラーしながらやってみる」のを当たり前にしていたのが今の仕事につながっていますね。みんなでワイワイするより、コツコツ自分で何かやるのが好きな子どもでした。

大学受験は上位の大学を目指して失敗し、1浪してそこそこの大学で法学部で学びました。

就職→パワハラ→鬱→退職

新卒で新宿にある大手の不動産系の企業に就職しました。

入社前の2月に行われた新入社員研修は、全国の様々な部署に配属された新入社員270人が、軽井沢のホテルに集まり2週間にわたって行われました。

営業力がウリの会社で、営業職は軍隊のように規律を守る生活をしいられて、会社の歴史や、ビジネスマナー、トークや、所作の訓練を受けました。

毎日体力作りのランニングと、知識に関するテストがあり、夜にはランキングが貼り出されます。ホテルの部屋のメンバーがチームになっていて、なにかあれば連帯責任。あまりにキツかったので、雪が降りしきる中逃げ出した同期もいたほどでした。

研修最終日には、2週間の間に撮られた動画のスライドを見せられ、研修を乗り切った連帯感からか皆でなぜか涙がこみ上げたほど。今思ってみると、ちょっと洗脳に近かったのかもしれません。

その後正式に配属され、いい営業職として働きます。毎日数字に追われ、成果がないと電話の受話器を手にくくりつけられ、夜中まで電話営業。アポも取れない社員には受話器を投げつけられる。なかなかヤバい環境ですよね(笑)

そんな日々を続けていると、寝ても覚めても仕事のことしか考えられなくなり、いつのまにか空も見上げてないことに気付く始末。

それでもガムシャラに働き続けて、3年目に年間2億近く売り上げ、年間優秀社員に選ばれました。

結果はでましたが、そのころには心が限界でした。京王線幡ヶ谷駅のホームの待合室で急に放心状態におちいり、ボーッと座ったままいつのまにか1時間たっていたこともあります。

3年目ともなると売れる営業と売れない営業の差が明確になっており、売れない同期はどんどん辞めていきました。全国に170人いた営業職の同期は20人しか残っていませんでした。

同じ事業部長内で異動があったとき、ものすごく威圧的で精神的なパワハラをしながらも営業成績が良い部長の元に配属される人事が出ました。私は新入社員で入ったときから、この部長の下についたら自分が壊れてしまうと感じていたので、退職を決意。

部長に退職の意思をつげると、その上長の事業部長から呼び出され「おまえは辞めても成功しないぞ。用意された会社の商品を売ってただけだ。よく考えろ。」と言われました。当時は、「なにくそ!どうせ辞めるからって嫌味を言ったな」と反骨心むき出しでとらえていましたが、今になってみると事業部長の言ってることは正しかったのかなと思います。

会社が用意したコンテンツを販売して、会社の用意してくれたシステムのおかげで売り上げがでていただけで、用意されたレールにただ乗っかっただけでした。自分が他の社員よりできていたことといえば、諦めずに続けることくらい。営業職のひとならわかると思いますが、真面目に毎日数字につながることをやっていれば結果は出ます。

結婚→不妊治療→家賃滞納→ブログで成功

その後辞職して、1年投資やブログなどで個人でやっていけないかと模索するもお金は減り続けました。

辞めている間はハローワークで、就職のために資格を取れる講座を受けました。職業訓練というんですが、その制度を活用すると月に10万円もらいながら半年から1年間無料で資格の学校に通えます。そこで私はWeb制作の技術を学び、資格を取得しました。

その後、地方の企業にWeb担当として採用され、翌年結婚。

やっと心穏やかに過ごせるかと思って夫婦生活を2年続けると、今度は子どもができないという不妊の問題が…。ここから不妊治療に明け暮れ、どんどんお金がなくなっていきます。2015年7月のこと。

この時、マンションを賃貸で借りて住んでいたんですが家賃の支払いがどうしてもできない月が2ヶ月続きました。

どうしようもなくて親からお金を借りて支払ったんですが、その時に「なんて計画性がないんだ。」「収支がどうなってるのか家計簿見せなさい。」「これからどうするの?……副業で稼ぐ?は、できるわけないでしょ」と、散々な言葉を言われます。

まぁ、支払いがとどこおった自分が悪いんですけど、後々になって「そこまで言うことないんじゃないか」とムカついて「絶対見返してやるぞ!」と心に誓いました。

とりあえずもう親には頼りたくないので、生活費をカードで支払い、家賃はちゃんと支払うようにしました。

そこでブログを始めます。徹底的に成功するための方法をリサーチしてからスタート。最初は訳も分からず始めましたが、続けていくうちにコツがわかってきます。

当時はブログ運営に関する書籍はそこまで多くありませんでしたが、関連書籍を含めると30冊は読みました。ブログ術、キャッチコピーの付け方、デザイン、文章術、心理学・・・その中で本当に役立つ情報だけを取捨選択し、自分の中でブログの運営方が確立されていきました。

そして継続するうちに徐々に収益が増えていき、365日毎日更新を達成したときには一月で24万円の収益化に成功します。

子ども誕生・・・先天性の持病→破産

ただ、不妊治療をしても子どもができないストレスからブログはだんだん放置気味になり副収入は目減りしていきます。

不妊治療からほぼ3年目、2018年夏に娘が誕生します。やっと授かった命に感謝しました。ただ、娘は心臓が弱く生まれてしまい、超低体重児だったためNICU(新生児集中治療室)へ。

検査してみると、心臓に穴が空いている、心室中隔欠損という先天性の病気でした。

穴は場所や数大きさなど個人差があるんですが、娘の場合は穴が3つあり大きさもなかなかのものでした。

NICUからGCU(新生児回復室)に移り、生後4ヶ月でようやく退院したものの、感染症にかかりやすく入退院を繰り返す日々。人工呼吸器を3ヶ月間つけて、10個以上のすごい数の点滴がついていたこともあります。

その時担当してくれた看護師さんのひとりに「神様は、この親なら大丈夫という人の元にこの子を授けたんだよ。これからも大変なことはあると思うけど、大丈夫、大丈夫。」と言ってくれました。

今になってみると、あの言葉をかけてくれたとき、おそらく、見た目にも親が疲弊していたのかなと思います。

生後6ヶ月には心臓の穴をふさぐ手術をして、術後は徐々に体調が改善していきました。

ただ、4歳になるまでは毎日のように病院と家を行ったり来たりして、ほぼ病院で過ごしました。

その間に仕事は手に着かなくなり、副業もまったくできなくなりました。

ただでさえ不妊治療でお金がなくなっていたので、生活に行き詰まることに。

生活費は4枚のカードのリボ払いでなんとかしのいでいたので、借金が800万にもなっていました。もともと上場企業にいたころにつくったカードだったので、利用限度の額が大きかったのも借金が大きくなる要因でした。

返済がとどこおり、もう自己破産しかない状況で、近所の弁護士事務所に相談に行きました。

行ったらその日に自己破産しかないと言われ、手続き開始。破産申請が許可されるまでは、

2022年12月に相談に行って、2年分のすべての銀行の明細、証券口座や暗号資産の取引明細、退職金の計算等の書類を集めるのに半年近くかかり、ようやく破産の許可が出たのは2023年の11月。ほぼほぼ1年かかりました。

再起をかけてブログを再開

そして子どもも幼稚園に元気に通えるほど体調がよくなり、ようやく時間ができたので再起をかけてブログを再開。

以前ブログで成功した時は、何もわからず始めましたが、今回は前回成功した知識があるので、何をどうしたらいいのかはわかっていました。

ただ、5年以上のブランクがあったので、そのままでは通じないところもあり、最新の情報を収集してから挑むことに。

現在はYouTubeやInstagramなどに「ブログで稼ぐ!」なんて情報が溢れていますが、嘘も多いですね。やはり、本当の情報を取捨選択して、そのまま取り組めば結果はついてきます。

また、生活費をブログでまかなえるまでになりました。

最後に

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

これから、このnoteを通して、私が学んだ知識を共有していきたいと思っています。

それでは、これからどうぞよろしくお願いいたします!


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