播磨国風土記の現代語訳1

目的


神功皇后について調べていたところ、播磨国風土記にも記事があるとのこと。ネットでざっと調べても全文が見当たらず、現代語訳を試みることにしました(順次アップ)。専門家ではないので参考程度にしていただき、ぜひ底本をお読みいただければと思います。()は読み仮名のほか訳者による補足をいれています。
 また、文末に備考及び雑感をいれました。こちらもご参考にしていただければと思います。

底本

「播磨国風土記」沖森 卓也、佐藤 信、矢嶋 泉/編著
 山川出版社 
2005.10出版

現代語訳

1~39行
Ⅰ 加古郡
 四方を見渡して、「この国は丘の原がとても広大である。そうして、この丘を見るに鹿児のようだ」とおっしゃられた。それゆえ名づけて加古郡という。狩をなさったときに、一匹の鹿がこの丘に登って鳴いた。その鳴き声は「ひひ」である。それゆえ日岡と名付けられた。
 この丘に比礼墓がある。〔坐す神は、大御津歯命(おおみつはのみこと)の子(みこ)、伊波都比古命(いはつひこのみこと)である〕
 褶墓(ひれはか)と名付けられた理由は、昔、大帯日子命(おほたらしひこのみこと)(=景行天皇)が印南別嬢(いなみのわきのいらつめ)を妻問いなさった。御佩刀(みはかし)の八咫剣(やあたのつるぎ)の上結(うはゆひ)に八咫勾(玉)、下結に真布都鏡をおかけになった。
 賀毛郡の山直らの始祖、息長命〔またの名は伊志治である〕を媒(なかだち)となさった。
 それで、妻問いのために下向されたとき、津国高瀬の渡り(現大阪府守口市)に至って、この川を渡りたいと欲せられた。渡し守の紀伊の国の人小玉がいうには、「私はすめらみことのしもべであろうか」という。
 そのときに勅して「朕君(あぎ)(ねえ、君)、そうではあっても、なお渡してくれ」と仰られる。渡し守がこたえて言うには、「どうしてもお渡りになりたいなら、渡し賃をお与えください」という。それで、旅の備えとされていた弟縵(髪飾り)を取って、船に投げ入れなさったところ、髪飾りの輝かしさは船に満ちた。渡し守は、渡し賃を得たので、すぐにお渡しした。それで、朕君(あぎ)のわたりという。
 ようやく明石郡廝御井(あかしのこおりかしはでのみい)に到着して、御贄をたてまつった。それで、廝(かしはでの)御井(みい)という。
 印南別嬢(いなみのわきのいらつめ)はそれを聞いて驚き畏れた。南毘都麻島(なびつまのしま)に遁げ渡った。
すめらみことは、賀古松原に到って印南別嬢(いなみのわきのいらつめ)を探し訪ねた。白い犬が海に向かって長く吠えた。すめらみことは、「これは誰の犬か」とおっしゃった。須受武良首(すずむらのおびと)が「これは別嬢の飼っている犬です」と答えた。すめらみことは勅され、「よくぞ告げた」と仰られた。それ故、告首(つげのおびと)と名付けた。そのようにしてすめらみことは、この小島に別嬢がいらっしゃることをお知りになって渡りたいとおのぞみになった。
 阿閇津(あへのつ)に至って、御食をたてまつりなさった。それゆえ、阿閇村という。また、江の魚を捕えて、御杯物(みつきもの)とした。それゆえ、御杯江という。また、船にお乗りになるところに、若い枝でたなを作り、ついに島に渡ってお逢いになった。勅して、「この島に隠(な)びたる愛(は)し妻」と仰られた。よって、南毘都麻(なびつま)という。
 すめらみことの御舟と別嬢の舟をともに編んだ。舵をとるのは、伊志治である。そのため名を大中伊志治(おおなかのいしじ)と名付けなさった。印南の六継村(むつぎのむら)にお還りになって、はじめて密事を成された。それで六継村(むつぎのむら)という。勅して、「ここは浪の音、鳥の声がかまびすしい」と仰られて、南方の高宮にお遷りになられた。それで高宮村という。
 酒殿を造ったところは酒屋村となづけ、贄殿を造営したところは、贄田村となづけ、宮を造営したところは館村となづけた。また、城を宮田村にお遷しになった。そうしてはじめて、婚礼の儀式を行った。のちに、別嬢の掃床(とこはらい)にお仕えした出雲臣比須良比売を、息長命にたまわった。
 墓は、賀古駅(かこのうまや)の西にある。年月がめぐって、別嬢はこの宮に薨去(かむあがり)なさった。そこで墓を日岡に作って葬りなさる。その屍をかかげて印南川を渡るときに、大きなつむじ風が川下からまきおこって、その屍を川の中に纏き入れた。南方に求めたが(屍を)得ることはできなかった。ただし、櫛笥と褶(ひれ)とを得た。それでこの二点をもってその墓に葬った。それゆえ、褶墓となづけられた。ここに、すめらみことが恋い悲しんで誓っておっしゃられるに、「この川の物は食べない」。このような理由で、その川の鮎は、御贄にたてまつらないのである。のちに、病を得て勅しておっしゃるに、「薬があればなあ」。それで宮を加古松原に造ってお入りになる。ある人がここに冷水を掘りだした。それで松原の御井という。
 
 望理里(まがりのさと)。〔土は中の上である〕大帯日子天皇(=景行天皇)が巡行にお出になったときに、この村の川の曲がりをみて、勅をされ「此の川の曲がりは、とても美しいな」と仰られた。それで望理という。鴨浪里(あははのさと)。〔土は中の中である〕昔、大部造(おおとものみやつこ)らの始祖(はじめのおや)古理売(こりめ)が此の野を耕して多くの粟を播いた。それで、粟粟里(あははのさと)という。この里に舟引原がある。昔、神前村(かむさきのむら)に荒ぶる神があって、常に舟を半ば留めた。それで、往来する舟がすべて印南の大津江(おほつのえ)に留まって、川上にのぼる。賀意理多谷からひきいだして、明石郡林潮(あかしのこおりはやしのみなと)に通わせた。それゆえ、舟引原という。長田里(ながたのさと)〔土は中の中である〕昔、大帯日子命が別嬢のところにおいきになった。道のはたに長い田があった。勅され「長い田だな」と仰られた。それで長田里という。駅家里。〔土は中の中なり〕駅家によって名とする。


備考&雑感

 前段が消失しており、途中から始まっています。
 大帯日子命(おほたらしひこのみこと)(=景行天皇)による印南別嬢(いなみのわきのいらつめ)の妻問いがこの段のメインストーリーです。大帯日子命は、ヤマトタケルのお父さん。印南別嬢はお母さんにあたります。そのわりに倭建命については一言もない。
 比礼墓には別嬢が葬られているとあるのに、「坐す神は、大御津歯命(おおみつはのみこと)の子(みこ)、伊波都比古命(いはつひこのみこと)である」。 底本註によると、日岡全体の神とされています。地図を見ると、加古川のほとりに日岡があり、水と岩を名に持つ神々でなるほどという感じ。
 話は戻って、妻問です。息長命が媒酌人となって、とあります。息長氏は琵琶湖西岸に勢力をはった謎の豪族。権謀術数の匂いがプンプンします。
 大帯日子命は、妻問の正装(御佩刀の八咫剣の上結八咫勾玉、下結に真布都鏡をおかけになった)をして、意気揚々下向しました。大阪府では高瀬川で渡し守に渡し賃をたかられたりしながら、明石に到達します。
 で、別嬢は島に逃げます。飼い犬が砂浜から島に向かって鳴き、居所が知れます。犬、貴様は誰の味方だ。その後もあれこれと祭りをおこなって、島に渡ります。島を出て、本土に戻ってから実質結婚し、式も行っているので、何らかの婚姻の風習なんでしょう。島は神域だったのかな。この南毘都麻島(なびつまのしま)は加古川の下流にあったようですが、地形が変わり現在は残ってないそう。もし残っていれば「恋人の聖地」確定に違いない。
 婚姻したと思ったらすぐに死亡の記事。日岡に墓を造り葬るさいに、大きなつむじ風がまきおこり、屍をさらって川に沈めてしまった、川を浚っても死体はあがらず、櫛笥と褶を掬いあげることができたので、それをもって葬り褶墓となづけたとあります。浪漫ですね。身も蓋もないことを言えば、神格化されている。
 こっそり息長命の記事が紛れ込んでいます。出雲の臣と婚姻関係を結んだ、と。古事記・日本書紀ではあえて秘されているんではとおぼしい二氏族の縁組。気になる。
 このあとは、地名伝承がつづきます。舟引原のあたりがちょっと難解。註に特に記載はなく、定説がない模様。神前村に荒ぶる神がいて、舟が先にすすめなかったので、賀意理多谷(=曇川)から舟をひいて林の港まで出したということなんですが、地形がかわったのか現在の地図でたどってもぴんと来ない。そして、荒ぶる神とは何者なのか。
 


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