播磨国風土記の現代語訳2
底本
「播磨国風土記」沖森 卓也、佐藤 信、矢嶋 泉/編著
山川出版社
2005.10出版
現代語訳 Ⅱ印南郡
Ⅱ 印南郡(36~66行)
ある人が言うには、「印南(いなみ)と名付けられた理由は、穴門豊浦宮御宇天皇(あなとのとゆらのみやにあめのしたおさめたまいしすめらみこと=仲哀天皇)が、皇后(おほきさき=神功皇后)とともに筑紫の久麻曽の国を平定しようと思って下向されたとき、舟は印南浦に停泊した。このときに、海原は穏やかで風や波が凪ぎ静まった。それゆえ、入浪の印南郡(いりなみのいなみのこおり)という」とのことである。
大国里〔土は中の中である〕。大国と名付けられた理由は、百姓(おほみたから)の家が多くここにあるからである。この里に山がある。伊保山となづけられている。その理由は、帯中日子命(たらしなかつひこのみこと=仲哀天皇)が崩御して、息長帯日女命(おきながたらしひめのみこと=神功皇后)、石作連来(いしづくりのむらじおほく)を率いて、讃伎国の羽若の意思をお求めになった。廬(いおり)を定めなさらないときに、石作連来がみつけたので美保山という。
山の西に野原がある。名を池之原という。池があるので池之原という。野原の南に作り石がある。形は館のようである。長さ二丈、広さ一丈五尺、高さもまたそれくらいある。なづけて大石という。「聖徳大王の御世(しゃうとくのおほきみのみよ=厩戸皇子の摂政期間)に、弓削大連(ゆげのおおむらじ)が造った石である」と伝えられている。
六継里(むつぎのさと)。〔土は中の中である〕六継里となづけられた理由は、前述のとおり。この里に松原がある。甘なもみが生えている。色はなもみの花に似て、形は鶯の巣のようである。十月上旬に生え、下旬になくなる。その味わいはたいへんよい。
益気里(やけのさと)〔土は中の上である〕。宅となづけられた理由は、大帯日子命(=景行天皇)が屯倉をこの村におつくりになったからである。この里に山がある。斗形山(ますがたやま)という。石で斗(ます)と乎気(おけ)とを造った。それで斗形山という。石橋がある。「上古、この橋は天につながり、多くの人々が上り下り通った」という。それで八十橋という。
含藝里(かむきのさと)〔元の名は瓶落である〕〔土は中の上である〕。瓶落と名づけられた理由は、難波高津御宮の御世(なにはのたかつのおおみやの御世=仁徳天皇の御代)に、私部弓取達(きさきべのゆみとりら)の祖先である他田熊千(おさだのくまち)が瓶を馬の尻につけて家地(家をたてるところ?)をさがしていたところ、その瓶がこの村に落ちた。それで瓶落という。
また、酒山がある。大帯日子天皇の御代に、酒の泉が湧きだした。それで酒山という。百姓が飲むと酔って入り乱れて乱闘した。それで、埋め塞がせた。のちの庚午の年に、ある人が掘り返した。今でも、酒気がある。
郡の南の海中に小島がある。南毘都麻という。志我高穴穂宮御宇天皇(しがのたかあなほのみやにあめのしたおさめたまいしすめらみこと=成務天皇)の御代に、丸部臣(わにべのおみ)等が始祖、比古汝茅を遣わして、国の境を定めさせた。そのときに、吉備比古と吉備比売が二人で出迎えた。比古汝茅が吉備比売を娶ってできた子が印南別嬢である。この女性の端正なことは当代随一だった。大帯日子天皇は、この女性と娶せたくお思いになって、下向された。別嬢はこれを聞いて、件の島に逃げて隠れいた。それで南毘都麻という。
備考&雑感
余談ですが、播磨国風土記を読む目的は神功皇后に関する記事の収集にありました。ようやく登場です。が、今回は特筆すべきエピソードではないですね。
以下、この段で気になった点を幾つか。
聖徳大王の御世に作られたという大石は、兵庫県高砂市の生石神社にある「石の宝殿」がそれであるとされています。が、生石神社のホームページでは一切触れられていないという。何か理由があるのでしょうか。巨岩であること、人工的に削られたとしか思えない直線的な構造、そして浮石構造。興味が掻きたてられること間違いありません。ぜひ、「石の宝殿」で検索して写真をみてみてください。
斗形山(ますがたやま)の石で枡と桶を造った話。即連想するのは酒舟石。そして石橋が天とつながっていて、多くの人が行き来した話。饒速日が天磐船(アマノイワフネ)に乗って飛んで降りたエピソードを想起せずにはいられない。石は天地をつなぐもの、という考え方は古代日本のデフォだったのでしょうか。
最終段は気になるところ満載です。
まず、志我高穴穂宮にあめのしたおさめたまいし?天智天皇以前に?調べてみると、滋賀県大津市に高穴穂神社というのがあり、12代景行天皇、13代成務天皇、14代仲哀天皇が都を営んだと伝承された土地とあります。息長氏の本拠地あたりだよねえ、ここ。成務天皇は、実在が微妙とされています。 母親が美濃出身なのに息長氏の本拠地に都を営むというのも不自然。
次に丸部臣(わにべのおみ)。和邇氏がなぜここで出てくる??
そして比古汝茅。ひこなむち?なむちといえば大己貴命(おおなむちのみこと)=大国主命と何か関係があるのでしょうか。
なお、播磨国風土記には今後、大汝命も少彦名もバンバンでてきます。
のろのろ更新ですが、面白くなってきました。
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