親切心からの行動
こんにちはPANDAひとみです。
ココ最近、何故か「久しぶり!」っていう友人からの連絡が立て続けに入りました。
不思議なのはどちらも「親切心」から来る行動で、中身は全然違う内容でした。
どちらもインスタで登場したことのある人達でした。
親切の方向性
とある友人は白パンダのネットニュースを見つけ、私を思い出して連絡をくれました。
「コレ本当かな?」
と疑問を投げかけてきました。
記事を見て私がパンダ好きなのを思い出してくれたようです。
全然会ってない人ですが、私が好きなものを見て思い出して連絡くれました。
もう一方の友人からの連絡は、また別の共通の友人の話に関する事でした。
「○○から相談受けてる?」
ただこの一言でした。
私は〇〇さんとも最近連絡をしてなければ、何が有ったのかも知りません。
しかしこの友人は〇〇さんという共通の友人の為に、心配と優しさから行動した結果です。
不思議なもんで、どちらの友人も自分の「親切心」からの行動です。
良かれと思っての行動でも連絡を受け取る側からすれば、なかなかの違いがありますね。
人のためには「自分のために」
心配で行動したりする、声を掛ける、ということは親切と捉えられる反面、おせっかいにも感じることがあります。
心配している気持ちや感情を穴埋めするために、自分の正義感やモノサシでつい行動してしまうことがあるのです。
しかし行動している最中、当人はそんなつもりは毛頭ありません。
人の為に一生懸命やっているつもりなのです。
もしかしたら親心や愛情で行動していることもあります。
勿論、他人の行動ではありますが何故そんな風に親切心にも差を感じるのでしょう?
「人のため」や「誰かの役に立ちたい」と思う事は沢山あると思います。
私は介護の仕事経験もありますから、そういう人は必然的にまわりに沢山いました。
「人のため」というのは、優しさでもありながら、巡り巡って「自分が満足するため」でもあります。
そうなると「人のため」でも「自分が満足するまで」行動に走ります。
人の満足ではありません。
自分の満足です。
自分の満足のために「人のためになることをしよう」とすると、今度は相手をコントロールしたくなります。
ゴールが「自分の満足」と決まっているからです。
そして当事者は満足することが目的ですから、そのコントロールは無意識に行われていきます。
そこに親切心や正義感や親心が入り混じっていれば、自分のエゴをを押し付ける結果に結びついてしまいます。
自分と他人は別腹
自分が満足するということと、他人が満足するということ、それぞれのゴール地点は違うということをまず理解せねばなりません。
自分がいいと思うこと、自分が美味しいと思うもの、満足度、それぞれ人と違うのは当然です。
共通の話題や、出来事があれば、それは楽しくなったり嬉しくなったりする事も沢山あるでしょう。
でも自分と人は違う選択をしても、楽しい時間が過ごせたり、それぞれ満足できたらそれで十分いいですよね。
自分の満足と人のゴールは違っていいのです。
自尊心をしっかり持つ
「なぜ他人をコントロールして自分が満足したいのか?」
それは自分自身で行動して十分に満足を得られる経験が少ないからなんです。
人に褒められたり、人に認められたりすると目に見えて満足が出来るのもそのためです。
自分の事を自分で認めることが苦手だったり、自分の価値に対して不安を感じたりするとどうしても難しく思えてくるのです。
すると他人から評価を得たいがあまり、コントロールしようとするのです。
自分が満足するために、他人の評価を必要以上に求めることはありません。
自分がどうあるか、じぶんがどんな感じか、客観的に見ながら自分を見てみると良いかもしれません。
ダウンロード
以下「はい」と心の中で唱えるとダウンロードされます
・私は自尊心を持ちながら生活することが出来ます
・私は自分の人生を自分でコントロールすることが出来ます
・私は自分の満足する感覚がどんなものか知っています
・私は創造主の定義観点における親切心がどんなものか知っています
・他人の親切心に振り回されること無く生きるとはどんな感じか知っています
・私は自分自身に親切でいることが出来ます
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