【小説】夏草の露 21/25
#21 夏草
言葉にならない何かを感じた。
虫の知らせってやつ。
たくさんの超常現象に触れたおかげで、欲しくもないと思っていた能力が磨かれてしまったのだろうか。
でも今はその能力があることに感謝しよう。
ミラーハウスの外に出る直前、僕はトワさんに追いつき、手鏡を受け取った。
そしてそれが正しかったことがすぐに分かる。
ミラーハウスを出たところでは、金髪マッチョたちがトリーとネイデさんをがっしりと抑え込んで僕らを睨みつけていた。
鹿の頭から角だけ外したのか――その角を、それぞれトリーとネイデさんの喉元へあてている。
僕はトリーの目を見つめた。
トリーは笑顔で唇を動かした。
それで充分だった。
今、僕とトリーの心はつながっている。この瞬間、僕だけがトリーの願いを叶えることができる。それだけでいい。もう迷わない。これ以上トリーを苦しめたりはしない――そんな一瞬の思考の流れで一呼吸も置かずに僕は静かに二つの手鏡を合わせた。
今まで感じたことのない寒気が、手鏡を持つ両手の先から肩へ向かって氷の爪を突き立てながら登って来る感じ。
肩が震え、耳が痛くなり、何か大きなモノに実際に振り回されているんじゃないかと思うくらい酷い目眩がきて、僕は地面に膝をついた。
鏡と鏡の間からたくさんの光が漏れて行く。
綺麗だった。
輝いていた。
陽の光とも月の光とも違う輝き。その光は涙でにじんでいる僕の視界を、きらきらと彩った。
「ありがとう。私の、夏草」
トリーの声が、聞こえた気がした。
でももう、僕がトリーにしてあげられることは、ないんだ。
白と黒の手鏡同士を合わせた隙間から光が全てなくなるまで、僕はぼんやりとそれを眺め続けていた。
しばらくすると、蝉時雨が戻って来る。
あの空から降ってくるような圧倒的な音として。
今は夏なんだなと改めて感じた。
誰かが僕の手にある手鏡をつかんだ。
とっさに反応できず、白い方を奪われてしまった。
僕はぼんやりしていたから、すぐには気付かなかった。
トワさんがスタンガンを当てたのはエナガの体にであって、菊池の体にではないってことに。
「やめ……」
トワさんの声が聞こえたあと、トワさんが地面に倒れ込むのが見えた。
「初めてだったんです! 僕のを触ってくれた女の人はあなたが初めてだったんです!」
菊池の叫びが、やけに遠くに聞こえる。
トワさんが出たという企画モノのために集められた男優側だったのか――なんていう思考が、他人事みたいに感じる。
僕が僕を見下ろしているみたいに。
「フーゴはきっと、助けると思うな」
トリーの声が聞こえてハッとする。
トリーの?
周囲を見回す。
菊池が、ギロチン・クロスの方へ走っていくのが見える。
「坂本さん。僕はあなたと目を合わせますよ! それで婚約成立です!」
菊池の叫び声が遠ざかる。
くっそ出遅れた。
全力ダッシュ。
他の人たちは僕以上にぼんやりと辺りを見回している。
事態が呑み込めていないようだが仕方ないか――突然、僕の横を黒い影が追い抜いてゆく。
ネイデさんだった。
「黒いほう、貸して!」
どう見てもネイデさんの方が早い。それならばそうするべきだろう。
ネイデさんは黒い手鏡を受け取ると、既にギロチン・クロスのレールによじ登り始めている菊池のあとを追って、するすると登り始めた。
早い! 早いよ、ネイデさん!
あんた何者なんだよっ!
菊池は白い手鏡を持ったまま、かなり上の方まで登っている。
しかしネイデさんの追い上げが凄まじい。
「く、来るなっ! 鏡、壊しますよ? そしたら坂本さんは永遠に戻れないかもしれませんよ?」
「そんなことくらいじゃ壊れないわよ。試してみたら?」
ネイデさんは構わず登り続ける。
本当に壊れないのか、そうなったらトワさんがどうなるのか、全く分からないというのに、ネイデさんの超強気交渉。
さっきの合わせ鏡で鏡の中に囚われていた人が全て解放されたというのであれば、あの中には今、トワさんが一人だけ閉じ込められていることになる。
今までのルールからすれば、菊池が手鏡を覗き込んだ場合、菊池が鏡の中へ、そしてトワさんが菊池の体の中へ入ることになる。
それなのに目を合わせたら婚約成立とか、あの鬼畜野郎、きっと手鏡の仕様をちゃんと理解していない。
もしも入れ替わったことで体が硬直でもしようものなら、あのコースターの高い所からトワさんの閉じ込められた菊池が落下することになる。
それでトワさんは助かるのか?
そこまではわからない。でも、試してダメでしたじゃ済まないんだ。
幸い菊池は手鏡を覗き込む暇もなく、ネイデさんに追い立てられるようにコースターを登り続けている――ああ、そうか。
菊池が目を合わせるとか言っていたのは、手鏡の効果なんかじゃなく、あのギロチン・クロスで当時流行ったっていう、カップルが幸せになれるっていう例のジンクスをやろうとしているのか。
でもその勘違いのせいで、最悪トワさんが菊池の体のままで死んでしまうかもしれないと考えると――どうにかして無意味だってことを伝えなくては。
とか考えているうちに菊池とネイデさんは小さなループのほうの頂上へ。
二人の距離は五メートルほどか。
僕はまだ登り始めたばかり。念の為にネイデさんとは逆側から。
「誰にも邪魔させませんッ! 自分と坂本さんはもう誰にも邪魔されなくなるんですッ!」
そう言って菊池はレールの縁に立ち、ちらりと下を覗き込んだ。
まさか自殺するつもりか?
そんなことしたらトワさんは――思わず鳥肌が立つ。オカルトの怖さではなく、人怖の方で。
そんなこと絶対に止めないと、なのに。
自分の身体能力のなさが恨めしい。
「き、菊池さん、早まっちゃダメだ!」
僕がようやく半分まで登ってかけた声に、菊池は僕のことを睨みつけながら怒鳴り返した。
「お、お前が言うなぁぁぁ!」
あれ? 僕は今日、勘が冴えてたはずだろ?
どうして菊池を刺激するようなこと、言っちゃったんだろう?
そうだよな。さっき作戦とはいえ、トワさんと僕は――どうして言う前に気付けなかったんだ?
そう思ったのと、菊池が無情にも鏡を覗き込んだのは同時だった。
菊池はゆらりと体の力を無くし、ギロチン・クロスのレールの頂点から、そのまま空中へと倒れ込んだ。
僕は――ここからじゃ絶対に間に合わない。
その落下は、スローモーションのようにやけにゆっくりと見えた。
菊池が鏡を覗き込んだ時、すでに走り始めていたネイデさんのことも。
ネイデさんは勢いをつけて跳んで、落下中の菊池に追いついた。
しかも空中の菊池を踏み台にしてさらに跳び、既に菊池の手から離れていた白い手鏡をつかみ、黒い手鏡と合わせた。
ほんのわずかな間に起きた、信じられないようなことが、僕にはなぜかしっかりと見えた。
一筋の白い光が合わせ鏡の隙間からどこかへと飛んだことも。
ドサ、という鈍い音が聞こえて、スローモーションが終わっていることに気付く。
それからガラスが割れる音も聞こえた。
僕は完全に傍観者だった。
登りかけのレールにしがみついたまま、しばらくぼんやりとしていたと思う。
「風悟さぁぁん!」
トワさんの声が聞こえた。
ネイデさんの鏡合わせが間に合ったのか?
そうか。良かった――いや、良かったのか?
耳の奥にはまだ、トリーの声が残っている。
トリーが望んだこととはいえ僕はまだ、「良かった」とは自分には言えないでいる。
「風悟さん、無事なの?」
トワさんが走って来る。
僕はようやくコースターのレールから降り、地面に足をつけた。
ノロノロとトワさんの方へ向かって歩いている僕。
全身に力が入らない。
そんな僕を迎え入れるようにトワさんが僕に飛びついて抱きしめる。
「ネイデさんは? キチ野郎は?」
僕はぼんやりと首を横に振る。
トワさんはようやく理解したのか、僕にしがみついて泣きだした。
ああ、そうだな。
僕もとても泣きたい気持ちだ。
でもその涙は自分勝手な僕だけの苦しみが理由だから、トリーがようやく苦しみから解放されたのだから、僕が泣くのは変なんだ。
なのに、視界がぼやけて、止まらない。
僕の横を何人かが走り抜ける。
ツアーの人たち、元に戻ったのか。トリー以外は、だけど。
「ダメだよ、ありゃぁ。即死だろうな」
そんな声が聞こえた。
その言葉は僕の心に突き刺さる。
なぜだろう、さっきまでは妙な万能感があって、なんだってできるような気さえしていた。
本来は小市民なはずの僕なのに、誰だって救えるような気でいた。
ああ、そうか。
その気持ちの源は、トリーへの想いだったから。
僕は電池が切れたんだな。
「おい、こっちは大丈夫だ!」
大丈夫?
何が大丈夫なんだ?
まさか手鏡が?
だとしたらもう二度と使わせないように、と力を振り絞って歩き出した僕の前方を、幾つかのライトが照らす。
浮かび上がるのは金髪マッチョと――本当に?
ネイデさん?
ネイデさんがヨロヨロと歩いて、僕らの方まで来た。
不死身の超人は、鹿頭女じゃなくネイデさんの方だった。
涙はまだ止まらないのに、頬が勝手に緩む。
「彼が落ちたのはコンクリートの上、彼女が落ちたのは茂みの上。ツイてるってのはこういうこと言うんだろうな」
金髪マッチョが爽やかな笑顔を見せる。
「ネイデさん!」
トワさんが僕から離れてネイデさんへと駆け寄り、二人してぎゅっと抱き合いながらさらに泣く。
良かった。
「良かったこと」がまだあった。
闇夜のような心の中に、小さな星のような救いがぽつぽつと光る。
その光もまた、きらきらとしていて、僕は目を閉じる。
トリーの言葉が、僕の心の中に染みてゆく。
最期に、トリーは僕のことを「夏草」と言った。
だとすると、僕の両目からこぼれる雫の一つ一つはすべて夏草の露なのかな。
そこにトリーが居るのかな。
少なくとも、トリーの思い出は、ここにあるのかな。
ひと雫もこぼしたくなくて、両手で顔を覆う。
夏草の露は、やけに温かくて、それがまた余計に露を滴らせる。
そんな僕にはお構いなしに、人の声が周囲に増え始めた。
「で、小沼ちゃんよぉ、どうするよ? 主催者さんだろ? シャキっとせぇよ」
野太くて特徴があるのは金髪マッチョの声。
「さ、相模ちゃんはどう思う?」
情けない声が聞こえて――僕は目を開いた。
そうだ。
トリーの体は――いや、相模治恵はどうなっ――目の前に立っていた。
傍らにはエナガが、トリー、いや相模治恵を支えるように立っていた。
「姉さんは発作を起こしました。ちょっと精神が不安定な状態なんです。申し訳ないけれど主催者としての仕事はしばらく免除してくださいませんか?」
ね、姉さん?
相模治恵は僕を見つめ、照れくさそうに笑う。トリーに似た笑顔で。
「違うでしょ。ほら、カッくん、ちゃんと謝りなさい」
カッくん?
ああ、エナガカツマのカッくん?
「その……姉が……戻ってきました。とても感謝しています。あと酷い態度もいろいろとすみませんでした」
えっと。ちょっと待って。
今のは、相模治恵? 相模治恵自身の本当の言葉?
相模治恵はじっと僕を見つめている。
「……フーゴ、さん?」
「は、はいっ?」
思わず変な声で返事をしてしまう。
相模治恵は手を伸ばし、僕の頬に触れて、指先にひと雫を拭った。
「きれいな雫ね。きらきらしてる。トリーネちゃんがくれた秘密の鍵みたい」
トリーが? 相模治恵に?
どういうこと?
記憶は――どっちの?
「相模治恵です。改めてよろしくお願いします」
「はい。よ、よろしくお願いします」
思わず返事はしたものの、何がどうなっているのか、混乱している。
どういうこと?
まさかトリーというのははじめから相模治恵で?
いやそれはないよね?
「ハイハイハイ、皆さん! 事故現場は保存します。あとは警察に任せますので、とりあえずバスに戻りましょー!」
背中をポンと押され、僕らはゾロゾロと正面ゲートへと向かい始める。
あまりにも多くのことがあり過ぎて、僕は心の消化不良を起こしている。
そんなただでさえいっぱいいっぱいの僕の手をぐいぐい引っ張る人が現れた。
トワさんだった。
ネイデさんと手をつないでいる。
「ね、聞いて、風悟さん! ネイデさん、彼と再会したんだって!」
再会?
「複雑な気持ちなんですけれどね」
ネイデさんは苦笑い。
「鏡を合わせたあと、私は夢を見ました。時間としては一瞬だったのでしょうが、とても長い……それとも短い、そんな不思議な夢でした。夢の中で私と彼は再びギロチン・クロスに乗っていました。あのときと同じシチュエーションで」
これってトワさんが聞いたというあの事故の時の話か。
「私はループの途中で彼の姿を探しました。でも、彼が乗っているはずのコースターには誰も乗っていなかったんです。でもすぐ耳元で彼の声が聞こえました。ごめんね、と、言っていました。私がたまらずにプロポーズはって尋ねたら彼は答えてくれたんです。プロポーズはしない。指輪は返してもらう。代わりに違うものをあげるよって……」
ネイデさんが眼帯を外す。
「見えるんです。ちゃんと……でも、こんな歳まで待たせておいて、いまさら、ですよね。男って本当に勝手なんですから」
「ネイデさん強ーい! そういえばネイデさんの腕、風悟さんのよりたくましい!」
「鍛えたんですのよ。いつかあそこから後追いするつもりでしたから。飛び降りるためにはまず登れないと、でしょう。ボルダリングっていうのを始めたら、上達が早いって褒められたりもして」
自殺するためにボルダリングって。
僕は思わず笑ってしまった。
ネイデさんもトワさんも、泣きながら笑っている。
いつか僕もああやって、泣くだけじゃない思い出話をできるようになれるだろうか。
そうだよね、トリー。
消えたとしても、なくなりはしない、だよね。
「よっ。それにしても大活躍だったね!」
急に背中をドンと叩かれ、むせそうになる。
「なぁ、兄ちゃんかい? 相模さんの来れなかった友達ってのは。あー、飛び入りだから自己紹介まだだったね。おいらはマルモリ。まん丸の丸に、モリは三本木の森じゃなく守るって字な」
金髪マッチョは丸守さんというらしい。
「いやほんと助かったぜ。ここを甘く見ていたよ。一応、準備してきたんだけどな……で、どうだい。ちょっと手伝ってほしいことがあるんだけどよ」
月が照らす丸守さんの笑みは、ちょと悪そうに見えた。
それにしても今更手伝いが必要なことって――そう。僕はもう何もかもが終わったと思っていた。
そんな僕の耳に、不穏な言葉が届いた。
「やっぱり気のせいじゃないよね?」
周囲がザワつき始め、丸守さんは「また後で」と言い残し小沼さんの所へと走って行く。
「ね、風悟さんアレ……」
「何?」
トワさんの見ている方向を見るのが怖かった。
だってトワさんの顔が明るかったから。廃墟とは思えないほどの光量で、色とりどりに明滅する幾つもの光で。
彼女の涙に濡れた顔を照らしているのは、どう考えても月の光には見えなかったから。