【小説】夏草の露 13/25
#13 ゾンビハウス
……ギギ……ギギ……。
その音が聞こえて、僕らは足を止めた。
金属をこするようなその音は僕らがあと十数メートルで着くというゾンビハウスの方から聞こえてきているからだ。
さっきまで風が草木を揺さぶる音以外には何も聞こえていなかったというのに。
「風悟さん、何の音?」
「それは僕も知りたい」
唯一の明かりである月の光の下、眼前にどっしりと構える80年代アメリカのドライブイン的な建物。
注意深く見つめると、まず目につくのは筆記体で大きく「Zombie House」と描かれた巨大なネオン看板。
ネオン管は看板のみならず建物全体をシンプルな直線や曲線で装飾しているが、もちろん今は電気が点いていない。
次に目に着くのは建物のほぼ真ん中に設置された回転扉。
その横にあるのはおそらく普通の自動ドア。
廃墟というとガラスが割れている印象が強いのだが、この建物については割れているガラスが一枚として見あたらない。
回転扉や自動ドアをはじめ壁面に大きく取られた幾つもの大窓も含め。
単なる閉店後と言われても納得できるほど。
これだけ綺麗だと本当にまだ使われているんじゃないかとさえ感じる――もしかして本当に使われて、ないよね?
ギギ……ギギ……ギギ。
風のさざめきに合わせるように金属系の擦過音が響く。
心なしか回転扉が揺れているような――その時僕は見つけてしまった。
回転扉、その右側の下あたり。
揺れる草の波間に何かが見えた。
けっこうな大きさのそれは回転扉に挟まっているようにしか見えなくて。
「トワさん……あれ。回転扉に何か挟まってないか?」
あれがもしも人だったとしたら。背筋に冷たいものが走る。
そういえば回転扉で死亡事故というニュースを聞いたことがある。
と同時に「死体」という存在を身近にあるという前提で思考してしまっている自分自身に震える。
しかもホラーランドでは、超常的な現象が実際に起きている。
まさか、あの死体みたいなのが近づくと起き上がる仕掛けとか?
「ゾンビ」という言葉に対する忌諱感がじわじわと湧き上がってくる。
「やっぱり他のとこ行く?」
トワさんがそう言ったのと同時だった。
風に乗って、人の声のようなものが聞こえた。
反射的に振り返るが人影は見えない。
恐らく屋外。反響音は聞こえなかったから。
するとゴールドラッシュの建物のさらに向こう、ドリームキャッチャーあたりか?
そういやさっき、ゴンドラの中をガンガンに叩いたっけ。
「ゴールドラッシュに戻るか、それとも」
その先を言い終える前に、トワさんは僕の手を引いてゾンビハウスへと走り出した。
草をかきわける音は、風の中へ散る。
どうする気なのだろうか。
回転扉の横の自動ドアは閉じているように見えるし、あれって手動でも開けられるのか?
もしかしてあの回転扉の死体を踏み越えて行くつもりなのか?
僕の迷いを吹き飛ばすかのような突風が吹いた。
風が草むらを割り、例のアレ――挟まっているモノと僕との間に視線を通す。
そして見えてしまった。
大きな動物の下半身のような。
馬とか鹿とか、そういう足が細くて長い四つ足の動物の。
頭も上半身も見えないが、尻尾からすると馬ではないように感じる。
えっと。鹿ってどんな尻尾していたっけ。
不意に視界が横にスライドする。
トワさんが走る向きを変えたのだ。
このタイミングで、という部分では正直、迷った。ついて行くべきか否か。
ただこのホラーランドに関しては彼女の方が詳しいし、さっき不信感を漂わせてしまったから今回は素直な反応をしたいってのもある。
結果的に僕は、彼女のナビゲートに逆らわずに走った。
そのまま建物の裏手へと回る。
うわ、臭い。なんだこれ。
さっきの回転扉に挟まったアレを思い出す。
風が腐臭を運んできているのだろうか。
その酷さに喉の奥が詰まる。
ここといいアクアツアーの入り口といい、どうしてこう臭いんだ。
これが廃墟のリアルなんだろうか。
廃墟なんて写真や映像でごくたまに見かけることはあったけど実際に来たのは初めてだし、僕の周囲にも廃墟へ行ったことがある人なんて居なかったし。
そこにこんな様々な悪臭があることなんて想像さえできなかった。
日常の中で遭遇したら確実に避けて逃げる臭い。
命の棲まない場所、そんな言葉が急に思考の片隅へと浮かぶ。
ガチャガチャ、という音で途切れかけていた集中力が戻ってくる。
「魔女のホウキみたいに鍵かかってなかったら良かったんだけど……」
トワさんが開けようと試みていたのは裏口のドアだった。
後ろがダメならやはり回転扉から入るしかないのだろうか――でもそれは避けたいなぁ。
何かの死体がある以前に回転扉があるのは建物の表側だし、追手っぽいのが居そうな今は見つかるリスクもやたらとある。
エリアを行き来できる他のルートはないのかな。何か見落としてないかな?
そう、例えば。
「トワさん、お猿の電車は壁をどうやって越えてる?」
僕の問いかけにトワさんは目を丸くした。
その理由が、僕の質問でないことはすぐにわかった。
「……助けて……」
背中をゾワリと悪寒が舐めまわす。
僕の問いかけに答えたのは、トワさんではなくドリームキャッチャーで聞こえたあの声だった。
それは誰かの声というより幾つもの声が重なった、とらえどころのない音。
本当に「音」として耳で聞こえているのかどうかも怪しいくらい。
トワさんは震えながら僕の手を握りしめつつ、僕をじっと見上げている。
あの手鏡、やっぱりすぐにでも割った方がいいのか?
「ライ……!」
「……ルシュ!」
追い打ちをかけるようにまた別の声が聞こえた。
風に乗って、今度はさっきよりもかなり近い。恐らくゾンビハウスの入り口付近。
声は男と女。そして日本語っぽくはない言葉。
ヤツラか?
ギ……ギギギギ……ギッ……ギッ……。
吹きすさぶ風とは違うリズム。
回転扉のところで何かしているのか?
何かって――何かできるようなものはあの動物の死体ぐらいしか思い出せない。
ヤツラがあの死体に何を――不意にキャトルミューティレーションという言葉が浮かぶ。
アメリカが舞台だけど宇宙人系のアトラクションはなかったはず。
いやまさか本物の宇宙人がここに、なんてオチは御免被る。
トワさんが僕の手をまたぐいっと引っ張った。
これは耳打ちしたい引き寄せだな。
「なにしてるのかな」
小声。
「回転扉のとこの音だよね?」
小声返し。
……ギッ……ギギッ……ギギギィ……ギッ、ギッ。
「あの音で注意を引き付けておいて、もう一人がこっそり近づいてきたりしないかな」
トワさんの考え、確かにあり得る。
マグライトをぎゅっと握り直す。
周囲に気を配ると、地面が回り始めたような気がして息を浅めに整える――あの目眩だ。
何度も体験しているせいか、目眩の正体になんとなく見当がついてきた。
目眩が起きるときに感じるのは、ラジオのオートチューニングのような感覚。自分の感覚がぐるぐると回る。
すると普段は感じ取れないものが次第に感じ取れるようになってしまう。というか超常現象的なモノへ強引に合わされてしまう感じ。
自分自身が日常から無理やり引き剥がされてゆくのだ。
この時、意識を必死に日常へしがみつかせようと踏ん張ると、目眩が少しだけ軽くなるときもある。
ここが難しいところで、ただ普通に「戻そう」とか「意識しない」とかやっちゃうとうまくいかない。
眠れない時に「眠ろう眠ろう」って考えちゃうと目が冴えちゃうのと一緒で。
否定形な意識がよくないのかも。
それよりも、日常の側にあるものに気持ちを集中させるほうが目眩から逃れられている気がしている。
なんていうか、カメラの遠近フォーカスにも似ている。
意識が手前に合うと近くしか見えなくて、奥に合うとオカルト的なものにピントが合いつつ手前はボヤけちゃう。アレ。
で、何でそんなことを考えているかというと、現在、身近にある日常というのは――すぐ身近で感じる彼女の体温やらなにやらで。
そこに意識が引っ張られると、目眩が少し弱まるというか。
だから今、つまりそういうわけで、決してそのやましいナニカではなくて――こんな時でも心の中で彼女でもないトリーへの言い訳を考えている自分がもう本当に健気に感じる。
「違う音もする」
ギッ、ギッ、ギッ、ギッ。
確かになんか別の音も混ざっている。何かを打ち付けているような。
ギッ、ギッ、ギッ、ギッ。
何をしているんだ?
ギッ、ギッ、ギッ……ギギギギギ、ギギィ……ゴッ。
最後、なんだかとても嫌な音がした。
肩が思わずすくむ、近くで聞きたくはない音が。
……ギィィィィ……ギィィィィィィ……。
「音、変わったよね?」
そのまま続けて何かを言おうとする彼女の唇に、指をあてる。
建物の中から音が聞こえたような気がしたから。
裏口の扉に耳をつけると……やはり、板張りの廊下を歩くときのようなミシ、ミシ、という音が聞こえる。
「トワさん……中に、」
誰か居る、そう言いかけたつもりだった。
だけど舌を噛みそうになって、その直後、突き飛ばされたんだなと気付いた。
突き飛ばされた?
誰に?
草むらに埋もれている状態から急いで起き上がる。
視界の端に光を見つけ、反射的にそちらへ走り出す。
マグライトはまだ持っている。
しっかりと握り直して、光の方へ向き直った。
男女がもみ合っていた。片方はトワさんだ。
慌てて近寄り、マグライトを男の背中へと振り下ろす。
男はのけぞり振り向いて――無表情ってほどじゃないなと思った矢先、眉をしかめながら僕の方へと向かってきた。
その男が、写メで見せてもらった瑛祐君のお父さんにすごくよく似ていた。
近づいて来ようとするのをマグライトを振り回して牽制する。
トワさんも男と距離を取りながらハサミ打ちできるよう回り込みつつある。
うわ、こっちに突っ込んできた!
とっさだった。
考えているゆとりなんてなかった。
恐怖にかられた僕がつい、思いっきり振り回したマグライトが、男のこめかみ付近へと見事に命中してしまった。
手首に響く手応えは、やけに重く、妙な柔らかさがあって、その感触だけを残して僕の頭の中は真っ白になった。
「風悟さん、逃げよう!」
トワさんはいつの間にか見慣れない懐中電灯を持っている。
この男から奪ったのだろうか。
「ほら早く」
僕の手をつかんで走り出そうとするトワさんの足が止まる。
彼女は手にした懐中電灯の灯りをさっきまで僕らが居た裏口の辺りへと向けた。
音が聞こえる。
裏口の扉を中からバンバンと叩いているような音が。
さっき開けようとしたときは鍵がかかっていた。
でも普通の鍵ならば建物の中からなら簡単に開けられるはず。
それを開けられないということは、扉の鍵が何かで固定されていて動かないとか。
もしくはドアを開けようとしているナニカは鍵を開けることすらできないような――ここのアトラクション名をもう一度思い出す。
ああ、嫌な考えしか出てこない。