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【小説】夏草の露 19/25

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#19 夏草の露

 僕は黄金髑髏を両手で抱えて、その空虚な眼窩を見つめた。
「申し訳ないですが、もう少しだけ手伝ってください」
 僕は走り出す。
 黄金髑髏をできるだけ地面に近づけたままで。
 予想通り犬の影は追って来る。
 間違いない。
 こいつら犬の影にとって、この黄金髑髏は大切なものなんだ。
 僕が向かう先にはトリーと瑛祐君、ネイデさんと他に女性が二人、それから初老の眼鏡男。
 トワさんとエナガ、そして瑛祐君のお父さんは倒れたまま。
 鹿頭女は犬の影から必死に遠ざかり、今度は大回りに正面ゲートの方へ。
「シュピーゲッ」
 背後で誰かがそう叫んだ。
 意味はわからないが、僕にはそう聞こえた。
 何かの暗号だろうか。
 ただそれは僕の足を止める理由にはならない。
 まっすぐにトリーたちの方へと向かっていく。
 ただ一つ、トリーが持っていたあの白い手鏡だけは絶対に見ない覚悟で。
「フーゴ! そのドクロを遠くへ投げて!」
 トリーの声だった。
 おもむろにトリーが叫んだのだ。
 その声は、乾ききった砂漠に水を流すように僕の中に抵抗もなく入ってきて全身に広がる。
 ああ、やっぱり、僕の好きな人の声だ。
 僕はどうしようもなくトリーのことが大好きなんだってことを思い知らされる。
 ほんの数日しか経ってないのに、どれだけぶりにこの声を聞いたのだろうとか思っちゃっているあたり。
 でも、だからこそ、わかる。
 声はトリーなのにトリーじゃないってことが。
 トリーは白い手鏡を両手で抱きしめている。ご丁寧に鏡面がこちらに見えるように。
 僕はそちらを見ないようにはしている。
 念のために片目をつぶったままで。
 トワさんがドリームキャッチャーでこの手鏡を見つけたとき、片手で両目を覆いスマホ越しに手鏡を見ていた。
 スマホ越しならば鏡の効果から逃れられるかも、という仮定は立ててみた。
 だけど鬼畜の菊池のおかげでそうじゃないという新説が出てきた。
 二人の共通点は片目。
 菊池は頭の怪我をTシャツで止血するのに片目が隠れちゃっている状態だった。
 現象からルールを考察すれば、鏡は両目じゃないと「中の人」を取り換える効果を発揮しない。
 そう、取り替えるだけ。
 金髪マッチョは取り換えた後も「ヤツラ」側だったから、その前に鏡で取り替えたやつ――瑛祐君のお父さんの中にいたヤツが入り込んだ可能性がある。
 残りの連中も順繰りに入れ替わっていたなら結局は「ヤツラ」なんだよな。
 犬の影と一緒にトリーへと近づいてゆく。
 彼女が抱える鏡を見ないようにして、もう少し。もう少し近くに。
 トリーたちは動こうとはしない。
 ネイデさんたちを僕が確保したらヤバい、というのが分かっているからだろうか。
 そう。ネイデさんは強い。
 片目を失明しているから。ルール上は手鏡に対して無敵。
 トリーの手前で突然進路を変え、持っていた手鏡を取り出す。
 まずはネイデさんを押さえつけている女性の方へ鏡を向ける。
 不意をつけたのか、その場に崩れ落ちるように倒れる。
「ネイデさん! 瑛祐君を押さえているヤツを!」
 中の人がヤツラからヤツラへと変わろうとも、中身が入れ替わってから動けるようになるまで少し時間がかかっているっぽい。
 格闘ゲームで技を出した後の硬直時間みたいな感じ。
 わずかな時間だが、それが僕らのアドバンテージになる。
 ネイデさんは即座に立ち上がり、瑛祐君を押さえつけている女の手をひねり上げた。
 解放された瑛祐君を、僕は抱き寄せる。
 いや、中の人は、瑛祐君ではない。
 本物の瑛祐君は鏡の中に居て――いや今は瑛祐君のお父さんの中か、もしくはまた鏡の中か――とにかく僕が最初に出会ったときから、この瑛祐君の「中」は瑛祐君ではなかったんだ。
 その人は、僕を助けてくれた。
 というか僕が来るかもしれないと判っていた――そんなの一人しかいないじゃないか。
 僕は瑛祐君の耳元に小声で話しかけた。
「トリーだろ。どうやったら元の体に戻してあげられる?」
 瑛祐君は、いやトリーは、僕にぎゅっとしがみついた。
「えっと、オレ……私が覗き込んだあとの鏡を、ハインリヒに……あの相模治恵の体になんとしてでも見せて。あとはなんとかする」
「やってみる」
 ハインリヒは誰だかわからない。
 でもきっと今トリーの中に入っているヤツのことなんだろう。
 僕は瑛祐君から距離を取り、その顔に鏡を向けた。
 瑛祐君は、笑顔を浮かべながら、尻もちをつくみたいにしゃがみ込んだ。
 振り返りざまにトリーの体を探す。
 もちろん片目だけで。
 トリーは、入り口近くのヤツラの集団の方へ走り出していた。
 大丈夫。
 きっと間に合う。
 まだそんなには離れていないから。
「ごめんなさいっ!」
 僕は黄金髑髏をボウリングの球のようにトリーの体の方へ思いっきり転がした。
 すぐさま黒い犬の影が地を走り追いかける。
 凄まじい吠え声を上げながら。
 案の定、トリーや、集団のヤツラは震え出し、動きが鈍くなる。
 これなら追いつく。
 なんとしても追いついてみせる。
 僕は渾身の力で大地を蹴った。

 集団の中で唯一、身をすくませずにこちらへ向かってきている人が居る。
 あの金髪マッチョだ。
 ただ、それでも片手で頭を押さえてはいるから、影犬の吠え声に耐性があるだけで、全く効かないわけではなさそうだ。
 手鏡を取り出して構える。
 金髪マッチョは足を止め、顔を覆う――その隙に僕はトリーの体へと追いついた。
 トリーの体は、僕へ白い手鏡を見せようとする。
 でも本気を出した僕の力は、彼女の手から白い手鏡を簡単に奪い取れる。
 きっとこの鏡の効果は、中の人を替えるだけ。
 人を化け物にするわけではない。
 だからこそあの金髪マッチョが強敵なわけなんだけど。
 トリーの体は暴れて手鏡を取り戻そうとする。
「グーテンモルゲン」
 僕がドイツ語を発したのがよっぽど驚きだったのか、トリーの体はぎょっとして僕の顔を見た。
 それにタイミングを合わせ、僕は自分の顔の前に黒い手鏡を掲げた。
 トリーの体はガクンと力を失い、そのまま地面に倒れそうになる――のを、抱き留める。
 緊張の数秒間。
 トリーは数回まばたきをして、それから僕の目を見つめた。
「フーゴ……」
 これはどうなんだ。戻ったのか?
 トリーは確かにいつも僕をこの独特な、日本語の「ふうご」とは微妙に違う発音で呼ぶ。
 ただ、その呼び方をハインリヒもしていたってことは、見分ける鍵にはなりはしない。
 いや、トリーがなんとかするって言ったんだ。
 僕はトリーの言葉を信じるだけだ。
「トリー」
 トリーを抱きしめる。両手の手鏡で金髪マッチョを威嚇する。
「……文章、書かなくてもわかってくれるの?」
 ああ、間違いなくトリーだ。
「わかるさ」
 トリーが戻ってきた。
 僕はようやくトリーに逢えたんだ。
 トリーを抱きしめる手に力が入りそうになったとき、トリーは言った。
「私、やりたいことがあるんだ」
 この言いっぷり。
 いつものトリーの、僕が参加するのを待っているパターンのやつ。
「手伝おうか?」
 いつものようにそう言った僕は、すぐにそれを後悔する。
「この体を……本当の持ち主に返したいんだ」
「本当の?」
「フーゴも気付いているでしょ。私が、ヤツラと同じだってこと」
 同じじゃない。
 同じなはずがない。
 トリーはヤツラとは違う。
 だって僕を、僕らを助けてくれたじゃないか。
「違うよ。トリーは」
「違わない。私はトリーネ。あだ名なんかじゃなく、私の本当の体の時の名前なの」
 無意識に首を横に振ってしまう。
 僕の鼻をくすぐるトリーの髪の毛から香るのは、うちのシャンプーの匂い。
「いつから?」
「フーゴに出遭う前から」
「ずっと?」
「この体の……治恵さんが、もっとずっと小さな頃、この遊園地に遊びに来た時から……私はフーゴも、他の人たちのことも、ずっと騙していたんだよ」
 トリーの悲しそうな声。
 何か言葉をかけてあげたいけれど、言葉が出てこない。
 かわりにどんどん視界が――どこからともなく波が打ち寄せて、僕の瞳は溺れてゆく。
 ぼやけた視界に映るのは、遠いいつかの――そうだ。あれは、僕が初めてトリーに出遭ったときの記憶。

 高二の時の文化祭。
 校舎の三階の奥の方、喧騒が少し遠くなって人もまばらな教室で、僕はなんだか妙に気になるものを見つけた。
 その教室は半分が書道部、半分が文芸部で、それぞれが部員の創作物を壁や机に飾っていた。
 僕の目を引いたのはその中の一つ。
 普通の半紙の何倍かある縦に細長い紙に、いわゆるお習字では見たことがない横書きで、丁寧に書かれた字。
 僕はその言葉の前に立ち止まった。

夏草の露は夜に
その身にせいいっぱいの夢を映す
朝になり朝日を浴び
自分を輝かせてもらえて
つかの間の幸せを感じ
落ちて消える
夏草の露の人生は
そんな人生
でも後悔なんてない
消えるけれど
なくなりはしない
命の湖に戻るだけ
露は世界の一部だった
夏草に露という姿をもらっただけ
一滴の姿
世界の一部だったときには
知らなかった世界を
知ることができた幸せ
とても大切な宝物
露はきっと世界の一部に戻っても
あの幸せを忘れない
だから今日も湖面はきらきらと輝く

 しばらくその作品を僕は眺めていた。
 言葉の向こう側に、なんだか世界が見えた気がして。
「変ですよね。書道なのに横書きだなんて」
 そう話しかけられたとき、僕は少しムッとした。
 自分が、この作品を気に入っていることに気付いたから――そのせいでつい素直に自分の感想を言ってしまった。ほら、当時は若かったし。
「はじめは珍しいなって立ち止まったんです。でも読み始めたらなんだか一つの物語みたいで……隣が文芸部だからですかね。でも、立ち止まらなかったら読むこともなかっただろうし、それが横書きのおかげだとしたら他と違ったものってのが逆に良かったんでしょうね。僕はこれ、好きですよ。はかないのに強くて、それから……なんとなくですけれど、言葉も字もきらきらとして感じます。変なんかじゃないと思うんです」
 初対面の人にいきなり熱く、しかも長々と語ってしまったことが急に恥ずかしくなって横を見た僕は、顔を真っ赤にしてこちらを見ている女の子に、正直一目惚れしたんだ。
 その女の子が作品を書いた本人で、トリーだった。

 それから僕たちはすぐに仲良くなったわけじゃない。
 クラスも違ったし、書道部と文芸部を掛け持ちしていたトリーに対して僕は帰宅部だったし。
 でも僕らには一つだけかぶっている趣味があった。
 図書室が好きだってこと。
 ほぼ毎日のように図書室で出会い、なんとなく挨拶を繰り返しているうち、お互いがどんな本を読むのか、読んだ本の感想なんかを小さな手紙にして渡し合うようになった。
 たまに図書室で並んで互いにオススメの本を読み合ったり、時には一緒に帰ることもあったり。
 僕はトリーの視点も好きだった。
 だから彼女が書いた詩も、いつも楽しく読ませてもらった。
 彼女が好きだからじゃなく、彼女の紡ぐ言葉のファンでもあったから。
 そして勢い余って告白して、フラレて。
 あのときは本当に世界が終わったような気持ちだった。
 翌日は学校に行くのも嫌だった。
 ただ、トリーに借りていた彼女の詩集がカバンの中に入りっぱなしだったから、恥をしのんで登校した。
 ところが僕の告白はまるでなかったみたいに、トリーは僕へ気軽に話しかけてくるし、図書室での集いも変わらずあったし、普通に一緒に帰ったりもした。
 違うな。普通じゃなかった。
 明らかに一緒に帰る回数が増えていた。
 フラレてからの方が確実に僕らの距離は縮まった。大学まで同じところを選んできたし。
 そして僕が一人暮らしをしたら、そのむさくるしい男の部屋に入り浸るようになって。
 あれは大学三年の時だっけか、しばらく彼女が大学にも来ないことがあったんだよな。
 後から知ったんだけど親父さんを病気で亡くしたとかで――そのあとすぐか。
 僕のアパートの二つ隣にトリーが越してきたのは。
 それからはもう、居候みたいにずっと僕の家に入り浸るようになった。

 そうそう。トリーが引っ越してきたときだ。
 あの『夏草の露』の書を、うちのトイレのドアに貼りつけていきやがって。
 理由を聞いたら、トリーはそのときにはもうなかなか見せてくれなくなっていた笑顔を久々に浮かべて「夏草だから」って言ったんだ。
 その時は意味がよく分からなかったけれど、僕らが出逢ったきっかけの作品を僕にくれたということが、かなり嬉しかったのを覚えている。
 だから翌日にはトイレのドアから剥がして汚れたり破れたりしないように保護して、食卓から見える位置に飾り直したりもした。もちろんそのまま今も同じ場所に飾ってある。

 そうか。今なら分かる。
 夏草の露、あれはトリーの気持ちそのものだったんだ。

 トリーを抱きしめる手が震えている。
 僕の嗚咽おえつのせいだ。
「トリー、君は、僕を騙してなんか、いない。僕が、君に、最初に、出逢ったとき、僕が、感動した、のは、トリー自身の、心の、言葉だから。あの詩のまま、トリーはずっと、せいいっぱい、生きてきた、だけじゃないか」
「あり……が……とう」
 彼女も泣きながら言葉を詰まらせ僕にしがみつく。
 夜風に冷やされていた僕らの体は、触れているところから温もりを取り戻す。
 このままトリーを連れて帰りたい。
 エナガの言葉を思い出す。
 本当にたった一人の、大切な人。
「フーゴ、ダメだよ」
 まるで僕の気持ちを見透かしたかのようにトリーはそう言った。
「ずっと機会を待っていたの。治恵さんにこの体を返さないと」
「……トリー……」
「私は夏草の露、だから。本当はもうずっとずっと昔に、とうになくなっていたはずの人生だったの。それにこうしている間も、治恵さんの人生を奪い続けているんだから」
 トリーの声も、僕にしがみつく腕も、震えている。
「どうしてこうなったかの物語、書いたんだ。フーゴのパソコンの中に残してあるよ。だからお願い。二つの鏡を合わせてください」
 トリーから人生二回目のお願い、されてしまった。

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