【小説】夏草の露 20/25
#20 好きと言う資格
「なあ、トリー……僕の体を使うことはできないか? 僕の中で一緒に生きていくことはできないか?」
僕が居なくなったら会社にも取引先にも迷惑はかかるけれど、でも代わりの人がちょっと苦労してでも仕事を引き継げる。
代わりが居るんだ。
でもトリーは、トリーの言葉は、替えがきかない。
「フーゴ」
急にトリーが僕から離れた。
「手紙じゃなく声で、お別れができて良かった」
本当に救えないのか?
だって、今はまだトリーは生きている。
僕はトリーを救う方法を考える。
考えなきゃ。
きっと何かあるんだ。
だってこんな力を持ったアイテムが今、僕の手の中に。
僕は完全にトリーしか見てなかった。
僕のすぐ横に、いつの間にかエナガが立っていて、僕の手から白い方の手鏡をスッと奪った。
そして手鏡を僕の方に向けて――視界が急に真っ暗になる。
しまった。
トリーのことで頭がいっぱいで、油断してたなんてもんじゃない。
それに、涙で視界は両目とも全くビッショビショだったってのに、そんなんじゃ防げなかったのか。
しかも痛みが遅れて僕の額と首とにやってきてるし。
これ、もしかして「体」から「中」が剥がされる痛みなのかな。
ジンジンと増してゆく痛みの中で、僕の体をトリーにあげてって、ぼんやり考えていた。
「ちょっと! 風悟さん、いつまで寝ているのよっ」
あれ、なんでトワさんの声が聞こえるんだ?
目を開いてみる――開く?
トリーにトワさん?
鏡の中じゃない?
そしてこの額と首の痛みはいったい。
というかどうなって?
トワさんが僕の頬をペチンと叩く。
「仕方なかったのよ。誰かさんは彼女に逢えてデレデレで、エナガがまんまと鏡を奪ったのに気づかなかったし、私が蹴とばしてさしあげなかったら、今頃その誰かさんは鏡の中だったんだから」
一秒で理解した。
「で、エナガは」
「っつーか、エナガじゃなくてアレ多分中身はキチ野郎だよ。これさえあればあたしを自分だけのモノにできる、とかキモイことブツブツ言ってたから」
その言葉は僕に深々と突き刺さる。
自分のことしか考えない奴の言葉だよ、それ。
そして僕も同類だったから。
頭では理解してても、心では理解してなかった。
トリーが今までにどれだけ、相模治恵の体を使っていることに苦しんできたのか、を。
いや、理解はしていたのかも。
理解していたのに、ガキみたいに拒んでいたんだ。
トリーを救う方法を考える、そのこと自体が、トリーの救いを取り上げる行為だってことに、気付かないフリをしていたのが無意識だったなんて言い訳はできない。
なんで僕がトリーにフラレたのか。あのときよりもずっとずっと前からトリーは一人で苦しんでいたのに。
そういうとこだぞ。
「トリー、今までごめんな」
エナガの後ろ姿を目で追う。ミラーハウスの方へ逃げているのか?
「フーゴ、あの鏡がないと、囚われた人たちを解放できない」
「救うよ。今度こそ、本気で」
僕とトリーは同時に走り出す。
「ちょっと、あたしをおいてかないでよねっ」
トワさんの足音も背後から追ってくる。
「入れ替わられた人たちは、どうなるっ?」
走りながら尋ねる。
「解放されれば、皆、あるべき所へ還るはずっ」
あるべき所。
この言葉は、今の僕には響きすぎる。
トリーとこうして一緒に過ごせる時間がほんの少しでも増えたのは嬉しいけれど、僕はそのトリーの魂を、僕がずっと「トリー」と呼んできた体から引き離すために走っているのだ。
苦しいという言葉では表しきれないくらいに苦しい。
けれど。
そんなものは僕の中だけの苦しみ。
僕が苦しくとも、トリーの中の苦しみは終わらせることができる。
それが唯一の救い。
トリーの求め続けた救い。
魔女のホウキと血まみれティーカップとの間を走り抜け、ナイトメア・ザ・メリーゴーラウンドの前まで来た。
エナガの後ろ姿は、ミラーハウスへと向かってる?
「トリー、あの手鏡って、もしかしてミラーハウスの二階から持ってきたの?」
「そう。あの部屋はもともとお城の中にあった部屋。領主の娘の部屋の鏡台は、当時から中に手鏡をしまえるような仕掛けがあったの」
「詳しいのね」
「仕掛けを造った人から直に聞いたから」
「あと、鏡ってもしかして両目で見ないと効果なかったりする?」
「……わからない。でも、確かにネイデさんには効果なくってモメていたわ」
「あたしからも質問いい? あの手鏡を鏡に映したのは見ても大丈夫なの?」
「……ミラーハウスの……あの白い鏡は、マジックミラーの裏に隠してあったのは見た事あったけれど……ごめんなさい。そこまでは」
「そっか。マジックミラーごしに鏡を見ても効果があるなら、実際に鏡が見えてないのに鏡を見た扱いになってるなって思ってさ」
「そんなこと、考えたこともなかった。ハインリヒは距離とか研究してたみたいだけれど、私たちはただ、普通に鏡を見てきただけだから」
「そのハインリヒって誰?」
「私たちの指導者。本物の魔女の恋人だった人」
「本物の魔女? 恋人?」
トワさんの質問が止まらない。
でも今はその方がいいのかもしれない。
僕は自身の未練がましさを抑えるのにせいいっぱい、だから。
「本物の魔女はあの鏡を創った人。そして私たちはニセモノの魔女。魔女という烙印を押され、財産を奪われてただただ殺されてゆく……はずだったの」
トリーの、体験者としての生々しい告白を耳にした僕とトワさんはつい立ち止まってしまった。
話の端が見えた。
おそらくトリーの言っているのは『魔女狩り』のことだ。
歴史の教科書の中でしか知らない言葉。
トリーにとっての日常には凄まじい存在感で君臨していたはずの言葉。
「フーゴ、トワ、なんで立ち止まるの? 早く追いかけないと……ハインリヒはリーダーだけれど、誰もが心から従っているわけじゃない。ちゃんと死んで、もう楽になりたい人や、生まれ変わって本当の自分自身の体を手に入れたい人もいっぱいいるの。ハインリヒが鏡の中に戻っている今しか、こんな機会はないんだから」
僕は馬鹿だ。
トリーがどれだけ長い間苦しんで、どれだけの想いをしまいこんで、相模治恵の体で生きていたのか。
なんであのとき、僕はすぐに鏡を合わせなかったんだろう。
自分のちっぽけな想いの中に浸って、トリーの気持ちを考えなかった僕に、彼女を好きだなんて言う資格はない。
「追いついたわ」
背後から突然の女性の声。
驚いた僕らが振り返ると、そこにはネイデさんが居た。
「手伝いにきたのよ」
「ネイデさん、心強い! でも、向こうの人たちは?」
「みんななんだかぼんやりとしていたわ。何をしていいのかわからないという様子で……でも、何人かはこちらへ向かってきている」
「よし。さっさとキチ野郎とっつかまえるよっ!」
「問題の人はどこに居るの?」
僕もトリーもトワさんもお互いの顔を見合いながら黙っている。
マジか。
今のやりとりの間に三人ともエナガを見失っているって?
いや僕もなんだけどさ。
「あー、もう!」
トワさんが叫んだ。
「二手に別れよう。風悟さん、来て。作戦があるの」
少しでも長くトリーと一緒に居たいという気持ちはあるが、こういう局面でのトワさんの判断がけっこう正しいことは肌で感じている。
僕はトリーを見つめる――ああ、ダメだ。
さっきもこうやってタイミングを逃したんだ。
トリーの苦しみを終わらせるために、僕は自分にできることをしなけりゃならないんだ。
「わかった。作戦ってのを聞くよ……トリー、ネイデさん、気をつけて」
「フーゴも……トワも気を付けて」
僕とトワさんはミラーハウスへ、トリーとネイデさんはその先を見に行くことに。
ミラーハウスへ入るとまず、トワさんは懐中電灯を消した。
そうか、暗ければ手鏡を見ないで済むっていう作戦?
「風悟さん、奥の手があるの」
「奥の手?」
手鏡やスタンガンのこと? それともまだ別の?
トワさんは突然こちらへ背を向けて、背中からもたれかかってきた。
なんだ? 何をするつもりだ?
「抱きしめてみて」
これ作戦なんだよね?
「こ、こうかな?」
「そ。そのまま奥に手を入れて」
「奥に?」
トワさんは手鏡を持っていた僕の右手をつかむと、そのままどこかへ誘導――えええええっ!
ふ、服の中っ?
トワさんのシャツのボタンが開いていて、僕の手はその中へと入れさせられる。手鏡を持ったままで。
「ちょ」
「風悟さん、そんなんじゃダメでしょ。見せつけなきゃ!」
もしかして、こういうこと?
右手に持った手鏡の鏡面を、トワさんのシャツの中で外向きへとひっくり返す。
「そう。ずっと、こうして欲しかったんだ……」
えっと。これ、手鏡を持っていることが悟られないって作戦なんだよね?
「もっと、触って」
トワさんの声が鼻にかかるような声になってきた。
しかもトワさんの肌に、下着に、手がしっかり触れてしまって、とんでもない罪悪感。
「大丈夫。誰も見てないって……」
走ってきたからだろうか、トワさんの肌に熱と湿度とを感じる。
「あっ」
トワさんが艶のある声を。
「んっ」
あのー。鬼畜の菊池さん、早く出てきてください。
なんかこれかなりしんどい。
「そこはくすぐったいぃ……あっ、そこ……そこ、いい……」
実際には僕の右手は服の上からトワさん自身の手による誘導で「動いている」風に動かされているだけなのだが、トワさんの名演技のおかげか、作戦に参加している僕ですら、そうは聞こえていないっていう。
「風悟さん、こっちの手も……」
そ、そうだね。
今はそういう盛り上がっているフリに徹しなきゃいけないんだ。
耳を澄ましながら、僕は左手でもそれとなくトワさんの体の線をなぞり始める。
こ、これはあくまでも作戦ですから!
「んっ……風悟さん……」
その左手にもトワさんは手を重ね、指と指との間にするりと指が入り込んできて――また誘導。
トワさんは僕の左手にキスをする。
そ、そこまでやらなくていいんじゃ――あー。そういやなんであの時キスされたのかまだ聞いてなかったっけな。
「嬉しい」
不本意な状況で誰かを待っている時って、時間の経つのがやけに遅く感じる。
あ、今度は左手がス、スカートの中ですか――って、童貞か僕は。
でもさすがに抵抗がある。いくら作戦とはいえ、トリーには決して見せられない。
あああ、もういい加減出てきてください。
「やめろぉぉぉ!」
不意にエナガの声がした。
やはりミラーハウスの中に居たのか。
「さ、坂本さんは今日、自分の恋人になっているはずですよね?」
「あたし置いてどっか行っちゃう方が悪くない?」
「それは……自分は……大切なものを失くしましたから、自分の記憶にはこの場所が残っていましたから、探しにきただけなんです」
「あたしよりも大切なもの、なのね。それって女の子の気持ち離れても当然だってわかっているよね?」
「自分は! 坂本さんの一番の理解者なのです。坂本さんが自分に出てきて欲しいからその男を使って演技をしているのはわかっているのです」
何か嫌な予感がした。
わかってて出てきたってことは、何か準備をしてきたってことか?
まだ辺りは暗闇だったけれど、僕は反射的に目を閉じた。
その直後、閉じたまぶたが白く透けるほど眩しい光を感じた。
しかも連続して――これ、カメラのフラッシュ?
足音が近づいて来る。
でも多分、向こうも鏡を持ったまま来てるんだろうな。
目を開けるのが怖い――でも片目なら。
砕けた鏡が散乱しているから足音の方向はハッキリ分かる。
鏡を抜くか? まだ早いか?
すぐ近くまで来た!
「明るいのヤダ! はいてないの見えちゃう!」
ちょっ――僕も動揺するくらいのトワさんの演技力、その直後。
トワさんが僕から離れ、聞き覚えのある衝撃音がして、そのあと人が倒れる音までした。
あの音、スタンガンだよな?
僕は片目だけ開いてみた。
暗闇の中に小さな灯りが点っているのが見える。
トワさんがライトを点けたスマホごしに周囲を照らしている。
そしてすぐにその光の中、鏡の破片が散らばる床にうずくまっているエナガが照らされる。
「あったあった。回収ー」
トワさんはエナガのすぐ近くから白い手鏡を拾い上げ、鏡面を地面へ伏せながら僕の所へと戻って来る。
「もっと長く作戦したかった?」
「いや……早く戻ろう」
なんだかトワさんの顔をまっすぐに見られない。
「だね。行こっ。これ、やられても気絶まではいかないから。体が痺れているだけで意識はあるんだよね」
「そ、そうなんだ」
そう言やトワさん、さっきエナガにスタンガン当てられたんだっけ。
まさか菊池とエナガとダブルで復讐したのか?
トワさん、恐ろしい子!
「やだぁ、風悟さん。立ち止まってるなんて、続きしたいの?」
僕は即座に首を横に振る。
トワさんは悪戯っぽい笑顔を浮かべると、上機嫌そうにミラーハウスの出口へと向かう。
僕もそのあとを追いかけながら、ふと何かを感じた。
これって。