2022.9.8(木) 正岡子規『歌よみに与ふる書』を読む⑥ ー客観の本意 城壁の歌からの拡大ー
「五たび歌よみに与ふる書」では、内容にあった叙述や小細工的な嘘がいけないということが書かれていました。つづく「六たび歌よみに与ふる書」は、例示は一旦おやすみして読者のQアンドA的な内容になります。
子規がいいたかった客観とは
子規はいきなり「生は客観的にのみ歌を詠めと申したる事は無之候」といいます。
「客観的に歌を詠めと言ったことはないし、客観に重きを置いて詠めともいったことはないけれども、まぁ強いていうなら客観に重きを置くという方が自分の意見に近いかなぁ・・・誰かが『皇国の歌は感情を本として』なんとかかんとかって言ってきたけど何の話?」的な答えをします。
ちょっとずつ異なっていても古今東西の文学というのは感情をもととするし、もし理屈をもととするならば歌でも文学でもないといいます。
「ん?いつの時代に誰が理屈を詠んだら歌でないと決めたんや?はぁ?理屈が文学になりえないというのは昔も今もどこの世界でも一致している定義で理屈が文学になるという人は日本の歌人ではない!!」と批判します。
ところででは、子規が「まぁ強いていうなら客観に重きを置くという方が自分の意見に近いかなぁ」とはどういういみだったんでしょうか?
で、子規の言いたかった客観とは
客観的に詠んだ歌でも感情をもとにしていることをいうまでもないだろうと子規は言います。そして子規はこんな風に心の動いて歌にする過程を説明します。
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