リフレインが叫び出す 同志社女子大学クリエイティブライティング作品集『乙女ひととせ10号』を読む
どうしてどうして僕たちは出逢ってしまったんだろう
俳句をはじめたきっかけは覚えていても、どうしてずっと俳句を続けてきたんだろうかとときどき思う。
僕は句会に参加する機会があって、そこからずるずるとやめられないで10年が経過してしまったという感じ。
歴史というには10年という時間は短いのかもしれないけど、1年という点を10回繰り返すと小さな点々が、やがて線になってきてそれが伝統みたいになっていく。
同志社女子大学俳句10年の歴史
『乙女ひととせ』は、同志社女子大学表象文化学部「クリエイティブ・ライティング」が毎年出している作品集。その10号が令和4年3月31日に発行となった。編集はWordを使って学生が担っているそう。毎年1冊発行していて、ちょうど10号ということで今作で10年目の節目。
僕の大学生だったのは7年ほど前だったので、まだ同志社女子大学のこの授業も3年目くらいだったんやろうけど、すでに同志社女子大学のクリエイティブライティングがきっかけで俳句をはじめたという学生に会うことが多くて、大学の1コマでありながら他大学の学生でもその存在を強く意識していた。
そのクリエイティブライティングの作品集『乙女ひととせ』だが、この10号の「はじめに」で佐野瑞季さんは、「学年や年齢の枠を超えて句に親しみ、意見を交わす和気藹々とした光景からは、俳句が本学における伝統になりつつあることを実感します」と書いてあるから学生の中にも同志社女子大学の顔になっているという意識が強く感じられる。
さっそく作品を見ていこう
クリエイティブライティングAの気になった作品
クリエイティブライティングAの作品 Myトップ5
1位
完成度が高い。むかし俳句雑誌『ゆう』のなかで坪内稔典さんが「京派の俳人」と田中裕明さんのことを評していたが、二橋さんの中にも京派的な意識(心の中の京都を描く意識)があるのかもしれない。打水もきっとホースではなく柄杓。その一掬いの癒しを求めている京都の街の茹だるような暑さ(花見小路だろうか四条全体かその他か)を想像した。
2位
色と色を重ねてくる俳句。意識的に描かれている構図だがシンプルで魅力的。芝不器男の「柿捥ぐや殊にもろ手の山落暉」を思わせるような色の鮮明さだ。地平を置いてリンゴ(しかも青)というアダムとイブを想像させるモノを持ってきたのが決まった。
3位
大胆。言葉が溢れ出すタイプの作品。アロハシャツというへんな角度から入って思いのままに豪快にもっていく感じが好き。この怒りの根源は食べるか食べないかという自分との葛藤。深夜2時でも昼の2時でもその一欠片は幸福感と罪悪感の塊なのだ。アロハシャツを隔てて天国と地獄に分かれるようだが、桂枝雀の落語「茶漬閻魔」のように地獄の方が心地よいこともあるのかもしれない。
4位
男気という言葉の反対は女心なのだろうか。女気と書くとふらふらしているチャラ男の周囲の関係を指しているように思える。本題に戻るが、この句はリズムの疾走感と季語の斡旋がうまい。夜が明けてしまわぬ前にレディーキラーを飲み干してしまおうということなのだろうか。
5位
講師の塩見恵介さん「『探さないでください』カブトムシ一同」に通じるモノボケ的発想がおもしろい。「供述」が俳句として言い過ぎているようで、実はこの場面が取調室だと想像できる要素にもなっている。この句の場合は「黴る」が季節を想像させ、じめじめとした5月後半から6月かけての時期を思わせる。
つづいて後期のクリエイティブライティングB!
クリエイティブライティングBの気になった作品
クリエイティブライティングBの作品 Myトップ5
爽やかな朝をシンプルな言葉で表現しているが、表現以上に昨夜のこと、これからの美術展のこと、この句の主人公の心情などいろんなところを想像させる面白さを感じた。
二句一章(ひとつの俳句のなかに2つの構成があるパターン)の俳句だが、タイツと聖歌を並べたことに驚いた。全員がタイツを履いていることと、かすれ声の聖歌が窮屈さを感じさせる。
卓越した時間表現の俳句として芝不器男の「永き日のにはとり柵を越えにけり」などが挙げられるが、この句の場合は切迫した時間表現。懐手しているのは教室か、それとも3限を別の場所で過ごしているのか。
人参の切って真ん中にある芯と、眼球にある瞳孔のぽっかり感がどことなく似てるとこの句を読んで気がついた。ぽっかりというオノマトペが人参と瞳孔の両方ともに効いている気がする。
塩見恵介さんの「死んだふりして冬空の愛し方」よりも現実の光景に引き寄せた俳句。たい焼きは関係性を描く要素としてうまく機能している。
リフレインよ永遠に
この文章を数人の仲間に見せたときに「ベタ褒めしすぎ」と言われた。
授業で俳句をはじめた人が中心だから、作品が捻くれてなく、伸び伸びしている。そのため、類想感や陳腐な発想な作品もあるんだろうけど、それはそれでいいのではないだろうか。
俳句甲子園もあり、いま若い世代のなかで俳句が広がっているみたいな楽観的な意見もあるが、僕たちは生き物も生きていけない泥の中から1μの砂金を探すつもりで俳句をしなければならない。
そんな苦しい思いを吐露しあって生きているけれども俳句をはじめた1秒後って本当は選ばれなくって悔しいとか、選んでもらってうれしいとか、自分の作品に思いもよらない感想が出てびっくりとか、そんな小さな喜びに「楽しい」を感じていたんではなかったけ。
『乙女ひととせ』では、作品だけでなく、受講者の選句の基準や俳句×○○といったテーマの散文も面白かった。印象に残っているのは、選句の基準についてリズムやユーモアの良さを挙げる受講者が多く、俳句の韻律や表現を純粋に楽しめている講座で輝かしい。
俳句の根源的な心地よさのひとつに韻を踏んだ時の気持ちよさ、韻を踏めた時の心地よさがあるんろうけど、それを何年もしているとあまり意識しなくなった気がする。
同志社女子大学クリエイティブライティングのリフレインよ永遠に!
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