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原動力となる「好き」という気持ち

 「愛してる」は割と限定された対象への気持ち=価値が各自の至上であり唯一無二であるもの…だと思うが、「好き」には多種多様な種類がある、と思う。

 恋愛対象としての「好き」、友人としての「好き」、猫が「好き」、あのキャラが「好き」、手巻き寿司は納豆が「好き」…好きはいろいろだ。

そんな中で私が思う、社会人として生きる上で必要な「好き」、の話。

 一応、一通りの仕事を任せていただいている一社会人としてはどうかと思いつつ、私は、「好き」がないと本当に気持ちの入った仕事ができないのだなと、おそらく人生の折り返し地点を過ぎてからちゃんと自覚するに至った。

 この数年、自分が思う理想の上司と一緒に仕事をできることがなかった。仕事は楽しくなかった。転職を真剣に考えていた。そんな私にこの春訪れたのは、理想の上司と仕事ができるという夢のような世界だった。ぶっちゃけこれだけで天に召されても文句は言えないレベルの至上。

 私には自分の会社で、心から尊敬する上司が3人いる。その1人の直属の部下になることを拝命した。何そのミラクル幸運…となったのが4月。それから3か月が経った。

 自分が尊敬する上司の部下であることはこんなにも楽しいのか…と思っているのだが、少し客観的に自分を見て、めっちゃ仕事してるじゃん(前年当社比)、と思っている。多少嫌なことや苦手なことも、その上司に言われれば「何とかやってみるか…」となる。上司に対してだけではなく、全方面に対して。この原動力はなんなのだろうか?と少し考える。

 昔から、多かれ少なかれ「好き」な対象に対しては、自分を犠牲にすることも何とも思わない節がある…と自分に対して思ってきた。時間も、努力も、まあある程度のお金も(笑)。好きな人(もの)に対して、何の抵抗感もなく無償ですべてをつぎ込んでしまう。それは苦でもなんでもなく、むしろそんな自分が誇らしくさえ思える。
反対に、少しでも「嫌い」になると、自分の持つリソースの1㎜も提供したくない、どんなに価値を持っていたものでも一瞬で捨てたくなる、それが私だと思ってきた。

 私の中で、尊敬と隣接した「好き」というのがおそらく存在していて、そこには恋愛的・肉体的な希望や欲望はなく、本当に「お慕い申し上げております」という種類の「好き」。なるべく近くには居たいし触れたいけど恋愛感情とはちょっと違う、でも自分の持つリソースを果てしなく限りなく自身の中で快感を伴ってつぎ込むことのできるもの。これが、自分が生き生きと仕事ができる、非常に大切な要素であると、今、自覚している。

 初めて部下になったわけではなく、間に7年ほどのブランクがあって再び部下になったのだが、その上司を尊敬している理由は

「真摯さ」

 私がとにかく人を嫌いになる理由は、真摯さがないこと。発言も、私に対しての態度も、考えも、その時なりの真摯さが感じられないと急激に幻滅する。知らなくてできないではなく、やる気がないとか人を思い遣らないとか、そういった真摯さ。
 その上司は、驚くほど真摯な人であると思う。私が生きてきた中で、その真摯さを持った人には、父親以外で出会ったことがない…その真摯さに私は惚れているのだと思う。その上司の考えに沿えるなら、力になるなら、私はすべての力を尽くせる、そんな存在である。

 その「好き」は、間違いなく原動力であり、その「好き」があるから仕事が楽しい。自分をすべて尽くして仕事ができて、それ自体がすべて楽しい。

 世の中にはたくさんの「好き」があるが、人は「好き」と思えることにしか本気を出せない、そういうことなのだと思う。「好き」ならなんでも楽しい、「嫌い」なら楽しくない、そんな単純なことなのだろうと思う。

 この幸せが、できるならこの先もう2年くらい、続かせてほしいものである。

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