君死にたまふことなかれ
今日は、朝から悲しいニュースが流れていた。好きだった女優さんがまた一人、旅立ってしまった。私の思いは、ファンだった一人として、とても哀しく、彼女が出てくる新作が永久になくなってしまったことが、残念だと思った。彼女が主演の「はやぶさ/HAYABUSA」という映画を、アマプラで見た。
そんなことをきっかけにnoteを開いたのだが、書きたいことは映画の感想でも、女優さんへの想いとかそういうのではなくて、報道とか記事を見ていて思った事を、科学的とか医療的でもなく、哲学的でもなく、一人の平凡な人間としてちょっと書きたいと思った。
とはいえひとつだけ社会的なことを言いたいのは、著名人有名人の自死的なことが起きた際の、WHOの報道ガイドラインや厚生労働省の発信を報道機関はもうちょっと見るべきだと思いますね。
さて、ここからは一個人の見解になります。
よく、報道される中で、「身近な人は気づかなかったのでしょうか」「身近に相談できる人はいなかったのでしょうか」聞くよねこれ。
これさ、言ってる人は自分自身がその『身近な人』の気持ちを想像して言ってるんだろうか?自分もまた誰かの『身近な人』になり得ることを想像しているのだろうか。そういう意味でほんとに軽い発言だなと思ってしまう。
大体においてこの場合の『身近な人』って、親兄弟子供配偶者彼氏彼女親友仕事仲間…という人を指すと思うのだけれど、たった今、そういう人たちが一番、なんで?と思っていて、一番辛くて、何もできなかったことや気付かなかったことを悔やみ、もしかしたらあの時のあれはそうだったのかと答えのない問いに悩み、一番自分を責める事になるのを、なんで気付いてあげられないのだろう。
そして、大事な人だからこそ言いたくない、想いを共有したくない、ということもあると思う。身近な人だからこそ、無理にでも聞き出したりとかはできなかったり、身近であってもいつも一緒にいるわけでも、常にやり取りしているわけでもない。そしてその人にも自分の人生があり、日々の暮らしをそれぞれにしてる。そんな今の世の中において、他人の心理的状況に常に配慮できるような状態の人…みんながみんなにそんな人、いるのだろうか。
私自身、『身近な人』になったことがある。でも、全然わからなかったし、なんなら今でも本当の理由は知らないまま。きっと一生知ることもない。『身近な人』になった時、私は思春期手前。でも結果的に3年後くらいに悪夢に悩まされて、でも私は運よく、言える意思と言える人がいるという条件が揃ったために相談することができた。もしその時に言えてなかったら、誰かを刺すか自分を刺すかしてたと思う。
みんなが結果そうなるわけじゃないとは思うけど、違うことで悩む人や悔いる人もいるだろう。そこまでちゃんと考えたか、当事者になった経験のある人しか、「身近な人は気づかなかったのでしょうか」って、言わないで欲しいなと思う。そして恐らく、そういう人は、そんな発言、簡単にはしないと思うんだ。
死に手招きされてしまう、ということ。
世の中には相談窓口や、救いたいと思ってくれている人たちも多くいる。そういうところに相談してください、という声を、こういう時は多く耳に目にすることになる。
また同時に、相談できる気力も無くなるんだ、というような意見もよく見る。確かに、そもそも人に相談するのは労力がいることだ。
他人だから話せることもある、ってよく聞く。大事な人だから言いたくないこともある。全て真実で、でも、全員に当てはまることはないこと、でもあるんだと思う。
私個人の感覚だけども、「まだ戻れる」死にたい気持ちなら、人に話せたり、踏みとどまったり、時間が解決したりすると思う。でも、その期間に、ふとしたことで思わぬスイッチが入ることがあって、そのスイッチは全力で回避しなくてはならない。でないと、思わぬ「逆やる気スイッチ」が入ってしまい落ちてしまうことがある。私の場合だが、そのスイッチがなんとなくどこにあるか分かっていて、うっかり押さないように気をつけていた頃がある。「暗闇の沈黙」と「特定の刃物」がダメで、それらを回避していた。最盛期はもういくつかあったが、自主的にそれらに触れないように気を付けていた。今はこの2つも含めて、文章に書ける程度には大丈夫である。
でもね、「もう戻れない」死にたい気持ちになってしまった人だったらどうなんだろう。もう何もかもがスイッチになり得たら…。そうなった時のスイッチは本当に些細なことかもしれない。例えば、飾っていた花瓶の花弁が一枚落ちたとか、LINEが既読スルーだったとか、夕日が悲しいほど赤かったとか…それでも、他の人には何も意味のない普通のことでも、その人が何か意味を見出してしまったら、スイッチになり得るのかもしれない。
誰かはそうだった、誰かはこっちだ、なんて見解を述べるつもりはサラサラない。だってわからないもの。でも、そうなってしまったら、それは条件とタイミングが揃ってしまっただけの事で、たったそれだけだけど、それで失われたものは二度と戻らない。
私は、自死を肯定するつもりは全くなく、しかし、否定するものでもない。どんなに仲が良くても、頻繁にやりとりしても、体を合わせたとしても、どんなに努力しても、他人のことは100%は分かってあげられない。私はあなたではないから。分かってあげられる、理解出来るはただの驕り。いくらか同じ気持ちになれたとしても、全く同じにはなり得ない。でも、人と人の関係はそこから始まると理解することはとても大切なことで、誰かの行動の結果そのものを全て否定しないためにも、その誰かの思いのためにも、自分が生きていくためにも、常に心の奥に置いておかなくてはいけないと思う。私の辛さは誰にも理解されないし、誰かの辛さを私が理解してあげることはできない。でも、寄り添えるのは死神ばかりではない、ということも信じたい。
彼女が主演の「はやぶさ/HAYABUSA」は、彼女の講演会のシーンがラストシーンである。偶然にも、彼女自身の口で、いのちについての語りで締められる。映画の感想はさておいて、セリフとはいえ、9年前の映画とはいえ、どうにもやるせない気持ちになった。