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タンゴ・フルートの巨匠、ドミンゴ・ルーリオのこと

アルゼンチン・タンゴという音楽はどんな楽器で演奏してもいいのだが、今よく見られるのはバンドネオン、バイオリン、ピアノ、ギター、コントラバスといった楽器のアンサンブルが多く、管楽器を使うことは稀である。しかしタンゴが生まれてまもない頃、つまり150年ほど前はフルート、バイオリン、クラリネット、ギターなどによる小編成アンサンブルで演奏されていた。バンドネオンはタンゴが出来てから入ってきた楽器である。
1910年頃、タンゴ専門の楽器編成として「オルケスタ・ティピカ」という用語が登場するのだが、当時の「オルケスタ・ティピカ」はバンドネオン、フルート、バイオリン、ギターの4人編成だった。

1910年頃のタンゴ演奏の楽器編成(クアルテート・デル・センテナリオのジャケット)

その後ピアノがアンサンブルに加わるようになり、コントラバスの使用も一般的になり、1920年代半ばにはバンドネオン×2、バイオリン×2、ピアノ、コントラバスの6人編成がタンゴ演奏の標準編成となり、フルートは消えてしまうのである。
 
タンゴ史に残る著名なフルート奏者と言った場合、タンゴ創成期の人物をのぞくとほぼ2人しかいない。ドミンゴ・ルーリオ Domingo Rulioとアルトゥーロ・シュネイデル Arturo Schneiderである。とはいえこの2人はかなりタイプの異なる。ルーリオはブエノスアイレス生まれで、国立シンフォニーやフィルハーモニーでも演奏したクラシックの正統派で、コロン劇場オーケストラの主席フルート奏者を生涯つとめた人物でもある。一方シュネイデルは1930年ロサリオ出身で、シンフォニーでも演奏しているが、キャリアとしては圧倒的にジャズ系。フルートだけではなく、アルトサックス、ソプラノサックス、クラリネットも吹くマルチプレイヤーである。ジャズやポピュラーの伴奏オーケストラなどの仕事を長くしていたが、1968年のアストル・ピアソラのオペリータ「ブエノスアイレスのマリア」参加後、オスバルド・ベリンジェリやカルロス・ガルシーア楽団、ブエノスアイレス市立タンゴ・オーケストラなどでも演奏するようになった。

ドミンゴ・ルーリオ
アルトゥーロ・シュネイデル

ここではルーリオについて掘り下げておく。
ルーリオは1927年生まれなので、彼が生まれた時点ですでにフルートはタンゴの標準編成からは消えていた。唯一例外と言えるのは1910年代の演奏スタイルをよみがえらせ、楽団編成を大きくして1934年頃から50年代にラジオやレコーディングに活躍したアドルフォ・ペレス・ポチョーロのオルケスタ・ティピカ・デ・ラ・グアルディア・ビエハである。ポチョ―ロの楽団はバンドネオン3、バイオリン3、ピアノ1、コントラバス1、ギター2、フルート1という、当時の標準編成にフルートとギターを加えたユニークなものだった(ちなみに巨匠オスバルド・プグリエーセの父アルベルトはこの楽団の初期のフルート奏者だったことがある)。
その後1930年代半ばから終わりにかけ、フアン・ダリエンソ、カルロス・ディ・サルリらによって古典タンゴはダンス向きのレパートリーとして復活を遂げるが、古典タンゴ時代の楽器フルートはそこではあまり顧みられなかった。
 1955年にペロン政権が崩壊し、アルゼンチンは社会・経済共に大きな変化を余儀なくされる。タンゴはアルゼンチンで一番ポピュラーな音楽ではなくなっていく。大編成の楽団を維持することも難しくなり、解散した楽団も増えた時代である。
 そんな中、1959年頃突如古典タンゴの軽快な演奏が大ヒットする。デキシーランドジャズのクラリネット奏者パンチート・カオが、ピアソラのオクテート・ブエノスアイレスにも参加していた2人、エレキギター奏者オラシオ・マルビチーノとベース奏者のアルド・ニコリーニのトリオ「ロス・ムチャーチョス・デ・アンテス」が、古典タンゴの名曲をデキシーランドジャズのようのテイストで演奏し受けに受けた。彼らを売り出した新興のディスクジョッキー・レーベルは、彼らの大ヒットで自社ビルを建てたという。
 このヒットが次々に同系統のグループを生む。クラリネット奏者ビクトル・デ・パスはギターとギタロン(時にフルートも参加)によるコンフント・デル・900を作って2枚のアルバムを制作する。ロス・ムチャーチョス...よりも、タンゴのスタイルにより忠実なものだった。

ビクトル・デ・パスのアルバム

ほぼ同時に出来たのがドミンゴ・ルーリオ率いるパケ・バイレン・ロス・ムチャーチョス四重奏団であった。ルーリオのフルートに、レオポルド・フェデリコのバンドネオン、ギターにドミンゴ・ライネス、当初はここにギタロンを加えていた(後年はコントラバスを加えた)。このグループはフルートがリーダーで、バンドネオンが入っている点で他とは少し違う。しかもそのバンドネオンは名手レオポルド・フェデリコなのである(バンドネオンをフェルナンド・テルが弾いている写真もあるが、これはフェデリコが他の仕事で来れなかった時の代役だったそうで、録音はすべてフェデリコが弾いているそうだ)。パケ・バイレン・ロス・ムチャーチョスはRCAビクトルレーベルにアルバム3枚分ほどの録音を残し、その後ミクロフォンへ転じアルバムを1枚出した。他に映画「ロス・シエテ・ロコス」のサウンドトラックを担当、2曲をシングル盤として発売した。1978年頃、日本のグローバル・レコードの企画で再結成アルバムを制作、のちにポリドールから発売され、アルゼンチンではCD化もされている。

パケ・バイレン・ロス・ムチャーチョスのアルバム(RCA)
パケ・バイレン・ロス・ムチャーチョスのアルバム(Microfon)
映画「ロス・シエテ・ロコス」のサウンドトラック盤

1978年、エンリケ・フランチーニのシンフォニック・タンゴ・オーケストラにドミンゴ・ルーリオはメンバーとして参加、これがルーリオの最初で最後の来日だった。この公演ステージの途中で、ディノ・サルーシ(バンドネオン)、ギター、コントラバスとの4人でパケ・バイレン・ロス・ムチャーチョスのスタイルで「夜明け」「わが愛のミロンガ」の2曲が演奏されたようだ。
クラシックでの活動を続けながら、まれにタンゴの演奏に参加することもあったようだが、ルーリオのタンゴ演奏は基本的にはパケ・バイレン・ロス・ムチャーチョスの録音の残されたものが最高だと言える。その原点は1910年代のタンゴ演奏の編成だが、ルーリオのフルートもフェデリコのバンドネオンも、古典タンゴ時代には無かった技術をもって、そこに新しいスリリングな掛け合いとダイナミズムが生まれたのだ。
ルーリオは1995年に世を去った。享年73歳。

1978年エンリケ・フランチーニ・オーケストラ来日公演のパンフレットより

ルーリオが亡くなった頃、タンゴ界に新たにフルート奏者が登場した。パウリーナ・ファインである。彼女は多くのタンゴ演奏家を輩出したアベジャネーダ音楽学校の出身で、1996年タンガータ・レア五重奏団に参加、1999年にピアノとのデュオによるラス・ピーバスを結成、さらに2003年タンゴ・デスアタード四重奏団を結成、ここでルーリオの流儀に忠実なスタイルを披露、パケ・バイレン・ロス・ムチャーチョスのスタイルをそのままやっているものも含まれていた。翌2004年その後ジャズ的な要素を強く持つピアニスト、エセキエル・マンテガとデュオを結成、私生活でもパートナーとなった。そこではタンゴのみならず、フォルクローレなどをコンテンポラリーなセンスで彩った音楽を続けている。一方でファインは若い世代にタンゴ演奏を教えることにも重点を置き、2010年には教則本「タンゴにおけるフルート」を上梓した。さらにその延長線上に2017年オルケスタ・シン・フィンをマンテガと共に結成、編成はいわゆるシンフォニーに近いものだが、そのレパートリーはタンゴ、フォルクローレ、アルゼンチンのクラシック作品など多様なものであり、ナディア・ラルチェル、フアン・キンテーロ、アカ・セカ・トリオ、ディエゴ・スキッシなど現代アルゼンチン音楽のゲストを迎えたコンサートを続けている。
ルーリオの遺産はより広がりを持って、なお息づいている。

パウリーナ・ファイン


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