多読派と寡読派の終わらぬ論争
はじめに
最近Twitterでつぶやいたりしているので、知る人ぞ知る、といった感じだろうが、「読書」という行為自体について関心が湧いてきている。
(これだけ聞くと、あまりにも卑近なテーマで、もうブラウザバックしたくなる人もいるかもしれない。小学校の頃から、はたまた幼稚園の頃から、私たちは「本を読」んできたわけだ)
この根底には当然、「他人」があるのだが、今回はそのことは棚に上げて、
・本は沢山読むべき(これを、「多読派」と呼ぼう)
・本は極力読まないようにすべき(これを、「寡読派」と呼ぼう)
という二つの流派の言い分について、自分が言いたい放題していこうかと思う。
今回も例に倣って、ただただ惰性の儘に書いていくので、ある程度の内容の散逸には、目を瞑っていただきたい…
では、始めていこう。
多読派の言い分
いざ見ていこうとなると、どこから手を付けていいのか皆目見当が付かないので、ここは以下の言説に絞ってみていくことにしよう。
本は、沢山読んだ方が良い。そうすることで、思いがけない発見が得られる可能性があるからだ。
こういった類の主張は、言うまでもなく多読派のものである。
たしかに、彼らの言い分は尤もである。
元々興味を持って開いた本から出発して、参考文献に限らず、読書の守備範囲を拡げていく経験は、誰しもにあることではないだろうか。
ところで、最近読んだ、「本をどう読むか: 幸せになる読書術 (ポプラ新書)」という本では次のようなことが書かれていた。
作者の岸見先生が言うには、読書は著者との対話であり、止めたくなったらいつでも止められるお気楽なものだという。
そして、なんとなくで買った本でも、自分が成長するにつれてその意味を見出すことがあるかもしれない、といったことも書かれていた。
200ページ以上ある本なのでこれ以上の仔細はあまり述べないが、彼はある意味で多読派である。
もっとも、該当著書の中で彼は「多読」という言葉を出して、それはすべきでないというのだが、
その場合の多読とは、ノルマを決めて我武者羅に沢山読む、といったことを指しており、
意図的なものであるという点で、いま私が議論していることとはズレるので、この指摘は無視することにする。
本をたくさん手元に置いておく(やがては読むかもしれない)ことで、自分が「幸せに」なれるように読書をすべきだ、という風に要約できるだろうか。
「幸せに」なるためには、自分で考えなくてはいけない、と述べており、この点は後に記すショーペンハウエルに通ずるものがあるので、見落とさないようにしたいものである。
岸見先生は、本との「思いがけない出会い」を大切にしろ、とも書かれている。
これは、また別のエマニュエル・トッドというフランス人が書いた「エマニュエル・トッドの思考地図」という本にも似た記述があった。
本題からどんどん離れていく読書(思いがけない出会い)であっても、いつか自分の中で大きな体系としてその意味が立ち現れてくることがある
―だから、多読には意味がある
といった趣旨のことが書かれていたように記憶している。
これも多読を推進する、大きな理由の一つになりそうである。
以上、出発点からここまでの要点を以下に簡単にまとめておく。
沢山の本に触れることで、
・思いがけない発見が得られる
・新たな知の体系を得られる
といった感じだろうか。
寡読派の言い分
この章で主に取り上げるのは、ショーペンハウエルである。
私が読んだ「自分の頭で考える」という短編で次のようなことが述べられていた(訳は、光文社の鈴木芳子さんのものを使用)
読書は、読み手の精神に、その瞬間の傾向や気分にまったくなじまない異質な思想を押しつける。
この一文に、彼の読書に対する基本的なスタンスの全容が如実に反映されている。
読書は、私にとって異質なものを取り込む作業である。
これは、私も再三言ってきたことで、(例えば↓)
それが端的にまとめて述べられているこの短編は、傲慢ではあるが「俺が書いたんじゃなかろうか」と思うまでに、「共鳴」した感がある。
※この「共鳴」という言葉は、先述の岸見先生が、これまた先述の著作で使われていた語である(もっとも、これ自体引用ではあるのだが)。本文では、「積極的に働きかけるのでも、何も働きかけないのでもなく、他者を支配せず、支配もされず、自分のままでいながら影響を与える」という説明が与えられている。
他人は他人である以上、私とそっくりな体系性は持ち合わせているはずがなく、その点で本という情報伝達の媒介には限界があるのではないか。
これが、冒頭に述べた「他人」の側面からの意見で、大元はここから出発して、先に挙げた本を読んできたわけだ。
閑話休題。
ショーペンハウエルは、読書ではなく「自分の頭で考える」行為をとにかく推奨する。
そのことにこそ絶対の価値がある。
読書は、自分の中のある種の仮定・推論の検証に用いるものであって、「何も考えずに」やたらと読むものではないと断じている。
この点、先ほど強調した岸見先生の意見に近しいものがあるだろう。
書かれていることを無批判に受け入れいるのではなく、その内容を吟味し、「当時の著者と対話する」のが読書、はたまた「共鳴」という行為なのである。
これを、概して寡読派の意見としておこう。
彼が明確に多読を批判している箇所を引いておこう。これは「読書について」の中からの引用になる。
たくさん読めば読むほど、読んだ内容が精神にその痕跡をとどめなくなってしまう。(中略)ひっきりなしに次々と本を読み、後から考えずにいると、せっかく読んだものもしっかり根を下ろさず、ほとんどが失われてしまう。
限られた精神の柔軟性の中で読むべきは、悪書ではなく良書に限るべきだ、と彼は述べる。
面白いのは、良書については彼は多読を勧める。
悪書から被るものはどんなに少なくとも、少なすぎることはなく、良書はどんなに頻繁に読んでも、読みすぎることはない。悪書は知性を毒し、精神をそこなう。
(いまこの記事を書いている現在、「読書について」は最後まで読み終わっていない都合上、良書・悪書についての議論はしないでおく。後々、加筆する予定ではいる。気が向かなかったら、しない。)
以上、寡読派の意見を以下に簡潔にまとめておく。
・本を読むことは、害でしかない
・自分の頭で考える方が重要である
余談だが、「エーミール」を表したルソーも似たようなことを書いている。
彼の場合は、読書ではなくて教育という観点から論じているのだが、彼の主張はエーミール本章の出だしの一文に全てが要約されている。(訳は、岩波文庫の今野一雄さんの訳を拝借)
万物をつくる者の手をはなれるときすべてはよいものであるが、人間の手にうつるとすべてが悪くなる
小さいうちから病気をしたら篤く看病し、けがをしないように家の中に閉じ込めておく。
こういった「鳥かご」的な子育ての風潮に疑問符を投げかけ、本性的な子どもの在り方(=自然の中で自由に働きかけを行える環境に置く)を提案していくのが、エーミールの上巻の前半部の内容(1章)である。
2章以降は、具体的にエーミールという子どもの子育てを通した議論が書かれていく(たしか。詳しくは忘れた)。
外発的に何かを自分の中に吸収するのではなく、内発的な動機によって吸収することこそ最も尊ぶべきものである
という点で、ショーペンハウエルとルソーは分かり合えるのではなかろうか。
多読派と寡読派の仮想的意見交流。そしてまとめ
注意したいのは、読書に価値を認めているのは何も多読派だけではない、ということである。
害である、とは言いつつも、寡読派のショーペンハウエルも利用価値を認めているのは事実である。
思考が行き詰ったときに、「思索以外の時間を読書にあてるのが得策だ」そうで、それ以外でする読書は害をなすのである。
自分の内から出てくる欲求・必要性の外延としての読書であって、読書自体が思索の起点になるのは、とんだお門違いだということであろう。
この、自分の興味・関心の由来をどこに据えるのかについては、ショーペンハウエルは残念ながら明瞭な形で(「自分の頭で考える」のうちに)書いていないので判然としないところなので、これ以上の議論は避ける。
さて。
多読派によれば、読書は自身の知見を拡げる上で重要なソースだとされていたことは、先に見た通りである。
換言すれば、「自分の中に無い知見を外から取り入れる」ということである。
このことに対して、ショーペンハウエルは明確に反駁しているのである。
知見、知というものは、自分に端を発するものであって、元来外から取り入れるものではない、と。
シンエヴァのラストで、ゲンドウが「知識は、自分の中に好きなだけ詰め込めるから」好きだ、と述懐するシーンがある。
(唐突なネタバレごめんね。まぁ、アマプラで配信始まってるし、もういいっしょ)
そこでは、図書館でひたすらに本のページを繰るゲンドウの姿が描写されていたのだが、彼はまさしく読書から知識を得ていたということである。
彼が、自分の中の疑問の声に反応して、本のページをめくるようになったのか、はたまた他人との繋がりを断つための口実として始めた単なる情報の余暇的消費であるのかは定かではない(おそらく後者だろう。両者が混じっている可能性も否定はできない)が、
もし前者の要素が微塵も無いのだとしたら、寡読派にしてみればとんだ罪人(つみびと)である。
余談はさておき、ここに多読派と寡読派の意見の亀裂を見つけることができる。
それは即ち、「一人で生きていくか、他者と手を取り合って生きていくか」という二択を迫る論争であると言い換えられるであろう。
これに容易な結論を出すことはできない。
私は目下、この類の問題を考えている。
これまでの人生を振り返る良い契機になるテーマではあるのだが、これまでの私の人生を自省すれば、私は圧倒的な寡読派である。
先にショーペンハウエルに強く共鳴する節があることを述べたが、こういったところにもその気が見えているように思えなくもない。
他人に頼るとは、即ち自分の強さ・完全性を否定することに外ならない。
私の外延では解決できないから、全く異質のものに縋ろうとする。
だが、現実は甘くない。私の身体は、異質なものを吸収できるようには作られていない。
生物学的に、吸収できる栄養素と吸収できない栄養素があるように、私の身体は構造的に、その意味で生来受け入れられないものを有しているのである。
この事実に、たてついてはいけない。解決の糸口など見えるはずがない。
他人は他人なのである。
どれほど私に近しい、均質なものに見えようとも本質では異なる。
そのことを理解せずに他人を頼ろうとし、事実頼ってしまったとき、私という自我は決壊する。
エヴァ的に言えば、ATフィールドが中和され、人類というレベルではなくとも、もっと小規模なレベルでの補完計画が行われるのである。
彼我の境界がなくなり、私は頼った他人の思考の傀儡となって、自我を完全に消失するのである。
ショーペンハウエルのことばを借りれば、この「自動人形」のような「私」は、決して私ではない。
と。
ここまで、純粋な、ある種病的な血統主義的な私像を掲げてきたが、実はそんな私は虚構であることを理解している私が居るのも事実である。
最近大学の課題で読んだシュワルツェネガーのスピーチ(リンク↓)や、
2019年東大祝辞の上野千鶴子さんのスピーチにもあった文句であるが、
人は、一人では生きられない。
これは事実である。
私たちは、絶えず他者性に触れ、それに侵されながら生きている。
だから、生まれ落ちたときの純血の私はもう存在しない。
あるいは生まれ落ちた時点で、母の血が物理的にも精神的にも紛れ込んでいる(生物学的には、この主張は正しくないであろう。血液型による主張がその典型であるが、そういうことを言いたいわけではない。要は、レトリック<修辞>だ。)から、純血という思考自体が蒙昧か。
どうしても、私は混血のようである。
では、多読をしてもいいのではないか。
今更どうということはないだろう、と自分に言い聞かせるのである。
だが、心の中でそれを受け入れらない私がいる。
こうして異議を唱えてくる私は、全てたしかに私なのだろうか。
もうそれすらも分からないほどに、私という内的規範は輪郭を溶かし、他人にのっとられているのではないか。
この記事を書けば書くほどに、その不安に駆られる。
そもそも、学校というシステムに身を投じた時点で、終身刑を言い渡されたようなものである。
あのような、没個性の権化たる空間で、如何様にして純血の自我を保てたろうか。
連日のようなテストに追われ、教科書を読み、先生の授業を受け、それをひたすらにアウトプットする日々。
私という存在は疾く失せ、ここでこうしてパソコンに向かって記事を書いている私は、顔のない大衆のような他人の自動人形としての私に外ならない。
だとするならば、森鴎外の言うところのレジグナチオン(諦念)の下、没個性に生きるのが、天理を全うするというものか。
これ以上書くと、本当に鬱になりそうなので筆を置く。
読了、ご苦労様。またご縁があったら、読みにきてください。