第60回大阪府合唱祭にて「Ave maris stella 花も花なれ、人も人なれ」を演奏します!
6/25(日)に池田市民文化会館アゼリアホールにて開催の「第60回大阪府合唱祭」にて、「Ave maris stella 花も花なれ、人も人なれ」🔗を演奏いたします。
出演時間は【16:57ごろ】を予定しています。(進行により前後することがあります)
(6/26追記)直前練習の様子をTwitterに掲載いたしました。
「Ave maris stella 花も花なれ、人も人なれ」の作曲は千原英喜先生で、9/3(日)開催の「第46回定期演奏会」でも演奏する予定の曲です。
今回、副題の「花も花なれ、人も人なれ」の言葉に関係する「細川ガラシャ」について調べてみました。こちらも参考に演奏を楽しんでいただければと思います。
本能寺の変により「逆臣の娘」 へ
細川ガラシャは1563年(永禄6年)、明智光秀の3女「明智玉(玉子)」(あけちたま、たまこの説もあり)として生まれました。1578年(天正6年)、15歳のときに細川忠興に嫁ぎましたが、その4年後に事態は一変します。
1582年(天正10年)6月、父・明智光秀が織田信長を討つ本能寺の変が起こります。本能寺の変のあと、明智光秀は「山崎の戦い」で敗れ、ガラシャの母や姉らは自害、「逆臣の娘」となってします。
細川家に嫌疑がかからないよう、またガラシャの命が狙われないようにするため、表面上、忠興はガラシャと離縁し、ガラシャは2年にわたって味土野(現在の京都府丹後市)で隠棲生活を送ります。
その後、ガラシャは細川家に戻ることができましたが、逆臣の娘というレッテルは貼られたまま、常に行動を制約、監視される状態の生活を余儀なくされます。
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キリスト教改宗による救いと試練
忠興が、キリシタン大名「高山右近」(たかやまうこん)からカトリックにまつわる話を聞いたことをきっかけとし、ガラシャはキリスト教に興味を持つようになりました。監視される生活が続いてくうちに、ガラシャはキリスト教へ救いを求めるようになったようです。
1587年(天正15年)、忠興が九州へ出陣し不在の際に、身を隠すようにして教会へ向かいました。ガラシャはすぐに洗礼を受けることを望みましたが、その時は身分を明かさなかったため洗礼は見合わされます。
この外出の際、ガラシャは日本人のコスメ修道士に様々な質問しており、その時のことをコスメ修道士は、「これほど明晰で果敢な判断のできる日本女性と話したことはなかった」と話したと言われています。
この一件でガラシャの外出が明るみになり、「監視」はより厳重になります。外出ができなくなったガラシャですが、侍女を通じて教会とやりとりし、書物を読み、信仰に励みました。
豊臣秀吉が「バテレン追放令」を発布しキリスト教を弾圧したのと同時期、ガラシャは洗礼を受け、キリシタンとしての「細川ガラシャ」としての人生を歩み始めました。洗礼名の「ガラシャ」は、ラテン語の Gratia (グラツィア)が由来で「神の恵み」という意味です。
当初キリシタンになったことを忠興に隠していましたが、その後改宗したことを告白すると忠興は激怒し、幸せだった結婚生活は一変しました。
忠興からは辛くあたられるようになり、心の拠り所をなくしたガラシャは、忠興との離縁を考え、宣教師へ相談をしました。ところが、キリスト教(カトリック)が原則、離婚を認めていないため、宣教師に離婚を思いとどまるよう説得されました。
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自身と家を「守る」ため選んだ道
1598年(慶長3年)、豊臣秀吉の死をきっかけに、石田三成を中心とする「豊臣派」と、徳川家康を中心とした「徳川派」の争いが勃発、忠興は徳川家康に従って上杉征伐へと向かいました。
一方、豊臣側の石田三成は、大名の家族を人質にして豊臣側に引き込むべく画策します。標的となったのは、忠興が出陣していた細川ガラシャでした。石田三成は使者を送り、ガラシャを人質に取ろうとしましたが、拒否されます。これに対して三成は、翌日、屋敷の周りを兵に囲ませ、実力行使に出ようとします。
忠興は屋敷を離れる際、「もし自分が不在のとき、妻の名誉に危険が生じたなら、まず妻を殺し、全員切腹して我が妻と共に死ぬように」と家臣達に命じていました。家臣達から屋敷を包囲されている報告を聞いたガラシャは「我が夫の命令通り、自分だけ死にたい」と伝え、集めた侍女や夫人達を外へ逃がしました。
キリスト教において、自らの命を絶つことは大罪のため、ガラシャは家老の「小笠原秀清」(おがさわらひできよ)に槍で胸を突かせ、命を絶ちました。このとき1600年ごろ、享年37歳でした。
介錯した小笠原秀清はガラシャの遺体が残らないよう、屋敷に爆薬を仕掛けて火を放ち、他の家臣達と共に自害しました。
この時の辞世の句として読んだのが
「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」
(花も人も散り時を心得るからこそ美しいのでしょう。花には花の美しさ、人には人の価値があります。)
ガラシャの死を知った「グネッキ・ソルディ・オルガンティノ」神父は、細川屋敷の焼け跡へ行き、ガラシャの骨を拾って、堺のキリシタン墓地に弔います。忠興は妻の死を悲しみ、キリスト教が主宰する教会葬でしたが忠興も参列しました。その後、ガラシャの遺骨は大坂の崇禅寺へ改葬され、今もその地で眠っています。
忠興への返歌
歌詞の中に、辞世の句のほかにもう一つ和歌が出てきます。
これは忠興がガラシャに送った和歌への返歌だそうです。
秀吉がガラシャに言い寄ることを警戒した忠興が、ガラシャに対して、
「なびくなよ我がませ垣のをみなへし 男山より風はふくども」
(なびいてはならない。我が家の垣根に咲く女郎花よ。たとえ男山から風が吹いたとしても)
と和歌を送りました。「女郎花」はガラシャを指しているといえます。
これに対して、ガラシャは、
「なびくまじ我がませ垣のをみなへし 男山より風はふくども」
(なびきません。我が家の垣根に咲く女郎花ですから、たとえ男山から風が吹いたとしても)
と、2文字だけ変えて返歌したそうです。
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細川ガラシャの生涯やエピソードを知ると、曲もより深く響いてくるような気がします。
最後に「ラプソディー・イン・チカマツ」の記事🔗でもご紹介した千原先生の言葉で締めたいと思います。
「ここで私は、死を肯定したり美化したりするものではない。人は、芸術家は、いかに生きるのか、生きたのか、を考え、問いかけたいのである。」
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