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てってこ歩くといきなり視界がぽんとズレたりして、穴がそこからじゅう沢山ある感じ。自分の中から出て来る楽しい事っていうのは存外そんなにもなくて。
何かがトリガーになっていて、動き出したり相手が幸せそうにしていると、相乗してこちらも幸せになったりする。一人遊びの限界値ってそんなに深いモノじゃない。僕にとっては。退屈も楽しめるけれど深みはない。
コマンド練習をしてる。複雑になればなるだけその過程は楽しいような気もするけれど、ほどほどな所で応用しながら適当に使うようになるのが自分の動き方みたい。どうしてかは分からないけど10連コンボだとかも、それそのものよりも勝つ事そのものに対しての話の方に目がいってしまって、結局コンボの達成そのものの喜びはあんまり得られたことがない。いつかできるようになりたいと他人事の様に思う。
穴があいているのを塞ごうとする。深い穴もあれば浅い穴。塞ぎ終わって暫く経った穴はもう跡が消えそうになっていたりもする。それでもクレーターだらけだ。一つ一つ穴を塞ぐ。塞ぐ為にいきているんだろうか、いや進むために生きている。でもどこに?別にどことかないんだろうな、だって今も別に息をしている。食事もできる。作り出せば自分好みのものが15分過ぎたころにはもう出来て30分もしたら食べ始めている。とても無軌道だ。
うまくいかない事に悩むことが好きなんだろうか本当に。ぶつかっている事象そのものがすきなんだろうか。そんな好戦的なのかな。そうなんでしょうな。友人周りに平和平和と言葉にするのは思う反面淀ませない為の穴塞ぎだったりするんだろうし、きっとそれは何個も何個もある穴の一つでしかなくて。悩む結果誰か幸せにする事が出来ればそれは大いに悩めばいい。でも大概はそうはいかない事の方が多い。一人でいた方が結果的に誰にも迷惑を掛けないのかもしれない。でもそういった事を脳が望んでいないのが人間だったりもするよね。誰でもいい訳でもない。円の中に入れるのは極僅かどころかな話で。
便利屋になる事を推奨されてきた。使いやすい奴は仕事を取りやすくなる。そうね。確かにそう。ただ最近思う事がある。便利屋をし過ぎる事によって便利屋の脳がこびりつく。安定稼働させる為にどうするか、が先に来る。そうじゃないんだよなって事も先の波を考えたら言わない事にも繋がるし、結果として強い否定が出来なくなる。イエスマンはとても楽だ。否定はとても力が必要で、流されるままに生きていけるような気もするから。
誰かしらがそれなりの値段でそれなりの仕事量を振り、買い叩かれているのではなく、自分で結果として値段もつけられなくなってしまうから付けられる。最悪だ。誰しもが豊かになりたいと思うのは必然であろうに、値段すらつけられないでいる事に気が付けない。「貴方は高い」だなんて言わせないっていう自信すら持てなくなってしまう。それは死んでる事と変わりないと思わないだろうか、思わない人がほとんどなのかもね。
だから出た気持ちは居酒屋で唐揚げと一緒に呑み込んでいくか、キャバ嬢のキャスドリと一緒に強く当たるか、適当な奴にぶちまけてるのを何度も見ている。表では笑っているのに裏では愚痴に塗れてる。これも死んでるのと一緒だと思う。
じゃあ自分はどうなってんの、と。穴ぼこだらけでも引き上げるだけの脚力が危ないときに、どうなるのって思った。
すごく良く分からない不安に襲われて。でも別に簡単だったみたい、気持ちの大元に戻ればいいだけでした。無軌道だとしても軌道の先端は決まっている。そこをきちんと見る。新しい軌道の先端が分からないから迷うだけで、何に悩んでたんだろうねという気持ちになった。視界が一時的に落ちても、最終的に浮上している。
いつも価値をくれてありがとうと思った日。