散っていくこと
ベランダに桜の花びらが落ちていた。
家の周りに桜の木が咲いていないからどこから来たのだろうと不思議に思う。
最近デジカメを持ち歩くようにしていて、「キレイだなぁ!」と思う瞬間を切り取る努力をしているのだけれど、昨日葉桜に切り替わりつつある中で桜の花びらが吹雪いているのがとんでもなくきれいだった。
春の陽気な天気も手伝って、寒いこととか花粉がひどいこととかも忘れてしまいそうだった。
桜の咲き始めに、花びらがふぁさっと全部落ちるのも中々きれいだけれど、桜が吹雪いているのはもっときれいだと思う。
桜並木の下を歩いている人の頭に、花びらがひょっこり乗っているのも、中々微笑ましい。
きっと後で、好きな人に
「あれ、頭になんかついてるよ??…春の贈り物かな?」
とか言われて、照れちゃったりする微笑ましいやりとりがあるんだろうなぁとか思いながらすれ違った。(え、重度の妄想癖ですって??承知の上です。)
通学に、なんの変哲もない紺色のリュックを使っているのだけれど、夜に疲れて帰ってきてリュックを下ろしたところ、桜の花びらがちょこんと乗っかっていることに気付き、ちょっとほっこりしたこともある。
重い荷物を背負って、疲れたな、嫌だなって思っていたけれど、一緒に桜も運んでいたなんてなんかちょっと気分がいい。
桜の花びらが舞っているのを、絶対カメラに収めたいと思って何回もシャッターを切ったけれど、目の前の美しい一瞬を切り取ることができなかった。
私の技術力のなさと、適当なカメラだからかもしれないけれど。
3回くらい、シャッターを切ってから、潔く撮ることを諦めた。
切り取れない美しさが存在すること、それは確かなのであって、私の中にそうゆう美しいと思えた瞬間があっただけ、ラッキーと思える。それだけでいいじゃんと見切りを付けて、花びらが舞うのをボーっと眺めていた。
今日、仲の良い友人が結婚する。
結婚がゴールみたいに言われていて、婚活だのと叫ばれているけれど、私はそうは思わない。
別々に歩んでいた人間が、時と場所を同じくするのだから、結婚してからがスタートだと思う。
「禍福糾える縄の如し」という言葉があって、黒柳徹子さんが向田邦子さんに「幸せの糸だけで糾えることってないの?」と聞いて、否定されたという逸話があるけれど、夫婦生活も二本の縄を糾える作業と一緒じゃないかと思う。
お互いの糸が、それぞれ幸せの糸の方が多くて、丁寧に丹念に編んで行けたら、結果的に幸せの糸だけで糾えるのではないだろうか。
桜は、咲いても美しいけど、散っても美しくて、季節が刻々と移り変わっていく中で、少しでもキレイだなぁと思う場面に出会っておくことが、私の糾い方だなぁと思いつつ、きっとこんなお天気のよい日に門出を祝ってもらえる友人も幸運の糸で縄を糾っていくのだろうなぁと嬉しいような誇らしいような気持ちに包まれた。
なにはともあれ、私はというと花粉がひどくて、きれいだきれいだという一方で、ちり紙と格闘している春の日です。