12/1;建前を脱ぎ捨てたい
本音と建前っていうのが日本人の美徳とかされているけど、本音で生きて何が悪いのって思う。
全部「本音」で生きていたら、角が立ってしまうということもある訳で、もちろん相手の気持ちを考えた表現をすることは大切だと思うのだけれど。
「建前」っていうのは、表現の柔らかさではなくて、本音とは全く異なる内容のことをいうものだと思っている。
んっ、ここまで来ると自分でも「建前」がなんなのかわからなくなってきた。
調べてみると「建前」とは、表向きの考えのことをいうらしい。
ふむ、なんともやっかいである。
本心をそのまま言うと角が立つ。そのため、なんとか自分に有利に物事を薦めていき、波風立てないようにするためには、「建前」が効いてくるらしい。
と、なにやら複雑なことを私達は当たり前のように存在を肯定してきた。
「本音と建前ってのがあるんだから、上手く使いわけないと!」
って周りに怒られた経験がある方はどの程度いるのだろう。ちなみに私は子供のころに怒られたことがあり、今朝もそんなことで至らない点を指摘されたので、「建前」という点について思ったことを綴ってみた。
正直「建前」なんて脱ぎ捨ててしまえばいいと思う。
建前なんか立てていたって、いつかは「本心」というものと向き合わなくちゃいけなくなる。
だったら、最初から「本音」であけっぴろげに素直に生きちゃっていいんじゃない?
って思ってしまう。
建前というのは、本来文字通り「建物になる前の段階のこと」を指す。自らの本心とは違う建物の土台で、そこから建物を作ってしまったら、本当に思っていたのとは違う建物が出来てしまうのではなかろうか?
出来てから、建物の土台を直すことが容易ではないことくらい、建築に詳しくない私でもわかる。
だとしたら、最初から意地でも自分の本心を写した建前を作り、そこから少しずつでも建物らしくしていった方が出来上がりはきっと気持ちのよいものになるに違いない。
そんな簡単なことなのになんで皆そうしないの?って子供ながらに思っていたことがあった。あれから月日が流れて、時代は21世紀。私は、アラサー。
いい「大人」
それでも、やっぱり本音と建前に上手く折り合いを付けられずにいる。
そんな私に「建前」と折り合う日は訪れるのだろうか。
いや、訪れる必要なんてないんじゃないと思ってみた今日。
大人になるということは、自分の辞書に色んな言葉は、表現が蓄積されていくことだと思う。
だとしたら、私は「本音」を如何に気持ちよく伝えられるか、相手を害さないか…経験にモノを言わせて、そこに真剣に取り組んでいくことが大人の階段を登るということなのではないだろうか。
そんなことをふと思いたって、私は「建前」という武器を持たないことに今ここに決め、記すことにした。
脱「建前」宣言