ホスピタリティーの押し売り
前に付き合っていた彼に、「ホスピタリティーの押し売りだな!」っと言われたことがある。
彼は、冗談で笑いながら言っていたけれど、本当のところはそれなりに困っていたのかもしれない。
真相はわからないけれど、どうやら私には他の人を喜ばせようと思って空回りしてしまったり、それが過剰だったりすることがあるらしい。
就職活動の時に、「自己PR」をいうように言われて、笑いを取った方がいいと思い「ホスピタリティーの押し売りって言われます!」と元気よく言って、その場の白けた雰囲気に後から後悔させられたこともよくある。
ちゃんと準備をしていけばいいのだけれど、今は私の就活失敗談は脇に置いておきたいと思う。
このホスピタリティーの押し売りは遺伝だという話をしたいからだ。
遺伝の源泉は、母そして祖母にまで遡る。
特に、母は「ホスピタリティーの大安売り」をしていると思う。
例えば、私が「〇〇おいしい〜。」と言おうものなら、外出先でそれを見つける度に買ってきてくれる。
それは、とってもありがたくてうれしいことなのだけれど、たまに美味しいものを食べるから「美味しい」と思ったりするのであって、それが毎日のように続いてしまうと、段々と飽きてきて、終いには食傷気味になったりする。
贅沢でわがままな悩みであることは承知の上だ。
だから、母が何か新しく買ってきても「美味しい〜最高〜」なんて言おうものなら、今度は毎日それが続くことになってしまうので、言い方には気をつけなければならないことを学んだ。
私も妹も、「美味しい!ありがとう!でも、次回は気にしなくていいからね〜」という言葉をつけ忘れないようにしているのである。
大好物の交通渋滞が起きないようにしなければならないからだ。
ただ、好物と好物と思えなくなっても、スーパーで母が私の好物を見つけてそれを買ってくれたことを想像するとなんとも嬉しいようなこそばゆいような気持ちになる。
だから、いつも買ってきてくれたものをいただく時は、ちょっと複雑な気持ちになる。
有難くて、嬉しいんだけど、本当はそんなにいらないんだけどな…という気持ち。
それを言葉にしてしまうと母が傷つくことを私は知っているから言葉には決して出さない。
その代わりに、いつも心の中でソッと「ありがとう」というようにしている。
好きなものを好きなだけ食べられるという幸せも、きっと「たまに」という限定があるからこそ際立つものなのだと考えながら、もう何日続いていたか思い出せないけれど、飽きてきたごま豆腐を見つめて、やっぱり今日もまた「ありがとう」と思うのである。