「これだ!」を探す旅
朝昼…と規則正しいリズムでご飯を食べられない時がある。
お腹が空いているというわけではないのに、なにかが常に口に入っているような状態。
それを、口寂しいと言うんだと思う。
口寂しいはきっと人恋しいとおんなじような感情で、言葉にできないけれど、なんとなく寂しいようなのと一緒。
口寂しいからと言って、甘いものを口に放り込んでも、「あ、これじゃない。」って思うから、私はもしかしたら甘党ではないのかもしれないなと気付く。
口になにかを放りこんでも、「これじゃない。これじゃない。」という違和感だけが残る。
口寂しいから「これじゃない」ものを放り込んで、「これじゃないもの」を体内に取り込んだ喪失感と罪悪感を埋めるかのように、他に口に放り込めるものを探してしまう。
「これだ!」を見つけるまで終わらない旅。
これは、人間にも同じことが言えるのかもしれない。寂しいから誰かと一緒にいようとするのか、その人と一緒にいたいのか、そうではないのか。
「その人」だったら、寂しさもフィッと飛んでっちゃうのかしらなんて。
でも、口寂しい時、最後に辿り着く「これだ!」は毎回違うので、移り気なのかもしれない。
今日の「これだ!」は、納豆だった。
個人的には、納豆はタレを付けない派。というか、別添のものは大抵つけない方が美味しいと思うくらいだ。サラダのドレッシングも、信玄餅の黒蜜も、ヨーグルトについているフルーツソースもいらない。
なんともいいがたい「納豆」の味。あまくもないし、からくもない。美味しいかわかりにくい。でも、どことなく素朴でほっこりとした味。
納豆を食べたら、口寂しさもどこかにいってしまっていた。
時折訪れる口寂しさを、「これだ!」で埋めてあげる日はあと何回位来るんだろうか。楽しさもありつつ、面倒なこともあって、でも、おろそかにするとあとで、癇癪を起こされたりするから、「これだ!」を探す旅は終わらないにちがいない。