自殺は偶然なの?
自殺とは、ある人の究極の行動の1つである。それにも関わらず、集計された自殺者数は毎年似たパターンに従う。これはなぜか。
私はここに数値化の暴力(数え上げの暴力)のさらに背後に潜む≪足し合わせの暴力≫の存在を主張したい。これを考えるために、統計そして統計学とはなにかという根本問題から話を始めたい。
平均値は現象の世界の概念であり、期待値はイデア界の概念である
平均という概念は数え上げenumerationによって生まれた(※ 詳細はイアン・ハッキング著『偶然を飼いならす』木鐸社、1999年にある)。平均は現在観察可能な数値の要約でしかないのに対し、期待値は観察不可能な理想的なもので、イデア界に存する。サイコロの期待値は3.5だが、何度サイコロを振ってもその平均は3.5に漸近できるが、3.5には到達し得ない。同様に、「サイコロの目の1が出る確率は1/6」ということは観察可能な現象からは到達できない。
統計学では観察可能な現象(現象の世界)の背後に、現象生成装置(イデア界)を考える。
この現象生成装置の1つが正規分布である。正規分布とは、釣り鐘状の形状をした確率分布であり、正規分布は期待値と偶然の大きさ(分散)という2つのパラメータによって変化する。ここで、正規分布はそもそもガウスによる天体の測定誤差の研究から生まれたという話をしたい。天体の測定には、測定器の性能に起因するズレが毎回生じてしまうため、天体の位置を知るためには誤差がどのように分布するのかについての知識が必要だったのだ。
誤差にはプラスマイナス均等に生じる誤差(偶然誤差random error)とどちらかに偏った誤差(系統誤差systematic error)とがある。系統誤差は、それが生じる原因(測定器の故障など)を特定できれば解消できるのに対して、偶然誤差には私たちには対処する術がない。また、誤差は多段階構造によって生まれる。すなわち、誤差は複数のステップが重なっていくことによって生じるのだ。測定器のある箇所ではプラス方向の動きが加えられ、次の箇所ではマイナス方向、その次の箇所ではまたマイナス方向・・・といったように誤差は多段階構造になっている。これらのプラス方向とマイナス方向の動きが同数であるときには、それは結果的には偶然誤差となって立ち現れる。
この誤差の性質からガウスが導き出したものが正規分布であり、それは偶然のモデル化であり、偶然を飼いならすための最強のツールなのである。
一人ひとりの自殺は一回きりのものであり、平均という概念の範疇外である
平均という概念は、数え上げられた「群れ」に対してのみ意味を持つ。そして、この群れをどのように管理するのかという問題を扱うのが生権力である。統計学では群れの平均と分散(詳細は省くが、正確には不偏分散を用いる)から正規分布のパラメータ(期待値と分散)を推定する。そして、ある年の自殺者数はこの正規分布という現象生成装置から生成されると考えるのが統計学の発想となっている。ここで、自殺者「数」という数え上げられた数値は現象生成装置から生成されるが、一人ひとりの自殺という行動はこの装置から生成されたものではない。
では、一人ひとりの自殺という行動と、この現象生成装置との間との関係はなんだろうか。ここには数え上げと足し合わせという2つの魔力が潜んでいる。ここで、ある人が自殺に至るまでの道のりとして、「自殺する/自殺しない」という2種類の行動を繰り返すと想定しよう。ここは乱暴な話になってしまい、この話の不完全なところであるが、ある人の自殺しやすさは0以上1未満の数値で表せると仮定する。下図はパラレルワールドが1000個あると考えたときに、ある人が自殺に至るまでの道のりの長さを表した確率分布(幾何分布)である(※ 統計学では当たり前のようにパラレルワールドを想定する。例えば、毎日私たちが接している降水確率もパラレルワールドを前提とした数値である)。
左上から時計回りに、自殺しやすさが0.2の人、0.4の人、0.6の人、0.8の人となっている。自殺しやすさが0.2の人は1回目で自殺してしまう可能性もあるが、10回、20回とかかる可能性もある。対して、自殺しやすさが0.8の人は1回目、2回目でほとんど自殺してしまう。このように、自殺しやすい人と自殺しにくい人とがいるときに、その人々の間では自殺という行動をとるまでの道のりが大きく異なる。このような一人ひとりで傾向が異なる現象については一括した管理が難しい。しかし、この難しさを乗り越えるための定理を統計学は発明してしまっている。それが中心極限定理である。
中心極限定理は、世界のあらゆる場所に偶然現象を発見する。
一人ひとりは異なったとしても、先の分布を大量に足し合わせるとそれぞれの人の固有性(偏り)が相殺されて左右対称の分布(正規分布)が生まれてしまうのだ。下図は100,000人の分布を足し合わせたもので、先に見た一人ひとりの分布よりもずっと左右対称の形状になっていることが分かる。
中心極限定理によれば、足し合わせる人数を増やしていけば、どのような分布であっても正規分布が生まれるのだ。一人ひとりの固有性は足し合わされることでただの偶然へと成り下がるのである。これは≪足し合わせの暴力≫と言っていいだろう。そして、一人ひとりの自殺という行動は期待値と分散というたった2つのパラメータから生成される偶然現象となってしまうのだ。また、先に述べた現象の世界の概念である平均値から、イデア界の概念である期待値を推定するときにもこの中心極限定理が登場する。中心極限定理は現象の世界とイデア界を繋ぐ通路となっているのだ。
これが一人の自殺と群れの自殺者数の関係であり、この2つのパラメータに介入する権力が生権力であると私は考える。生権力は偶然現象生成装置のパラメータ(期待値と分散)に介入するが、一人ひとりのパラメータ(ここでは自殺しやすさ)は生権力の領分ではない。