運動会は任意参加にしたらどうだろう。
以前、ゆとり教育全盛の時代に徒競走のゴール時に手を繋いで一緒にゴールするという珍妙なスタイルの徒競走をする学校が出てきた事がある。
徒"競"走という競う事を目的とした事象において勝ち負けを付けずに同時にゴールするのは確かに違和感があるが、運動には優劣をつけて相手を見下す側面がある事も確かで、成長期の記憶は強烈なもので「劣」の側に立たされた子供には生涯に渡り運動に対するトラウメイティックな感覚が残ってしまうことを考えると、この「同時ゴール」という結論に辿り着いた大人達の感覚もわからなくはない。
この事を先日知人と話していたところ、例えば絵や工作が得意な人は図工の時間に、歌や楽器が得意な人は音楽の時間に、英語や数学など勉強が得意な人はテスト結果などで味わう「注目される高揚感」を徒競走で活躍する事で味わうのだから同時ゴールでは意味がないと言われた。
その高揚感は普段の体育の授業で味わっているのでは?と尋ねると、普段からの努力で足が速くなったところを親に見てもらって認めてもらう事が大切だと言っていた。この点が既にスポコン人間の自己中心的な部分だなと感じる。
図工や音楽、英語、数学、国語などのその他科目は授業やテストの中で得意な人の存在は取り沙汰されても不得意な人が顕在化することはないのに対して、運動会においては不得意な人が多数のギャラリーの目前に晒されるのである。
例えば、図工などなら得意な子は県展等に、英語なら英検やTOEICなど、国語なら漢検など、得意な子は任意で授業の範囲を超えた高みに自ら申込んで参加する。体育の授業に対して運動会はこの高みの位置付けになるのではないかと思う。
得意な事を他者から認めてもらう機会として捉えているのなら得意な子だけの任意参加の企画にして然るべきではなかろうか。