距離の余白
人は感情移入しすぎて人との境界線が曖昧になることがあります。
家族、友人、学校の先生、憧れの人など・・・
ポジティブなことならまだよいのですが
その関係性が近い人ほど、
他人を自分のように扱いすぎて
おせっかいになったり
雑になったり
自分同様に際限なく責めたり。
境界線についての気をつけ方は
それぞれの学びであり
お手本を意識的に
見つけるしかありません。
そしてそれを教えてくれる人は
身近な人ではないと感じています。
深いことを知るのはほとんどの場合
自ら探しに行かないとならないかもしれません。
それを踏まえて昔話を書いてみることにしました。
私は誰かの気持ちになって考えなさい
と言う言葉の意味がよくわかりませんでした。
そのひとそっくりそのままになること。
あくまで想像上であるけれど、
他人に成り切ることが誰かの気持ちになると思っていました。
その人の環境に生まれ、
その人の容姿になりきり、
その人の皮膚感覚で、
その人の喜びや悲しみを自分の体感として擬似体験する、
その人自身の身体感覚を意識する、
それだけがその人の気持ちになる。
ではないの?
今になればきっと大人たちはもっとライトなことを
人の気持ちになって考えなさいと言ったと思うのもわかります。
自分の心の成長が未熟だと、雑に誰かの気持ちに浸るときがあります。
そうなれば、今、自分は誰の感覚を味わっているのか。
自分と似てる部分を誰かと同じものと感じてしまい、
他人と自分の境界線がなくなる。
他人を自分のように感じてしまう。
勘違いが始まります。
今になって思うのは、
他人と自分のスイッチングがうまくいかなくなると、
私の中で他人と自分の境界線が曖昧になる気がしました。
私はどのように自分の感覚を知ればよかったのか。
もっとちからを抜いて生きられれば楽だったろうなとは思います。
特に自分の感覚に自信が持てない時は、
今の自分自身が同じように私を感じられれば、
これが私なんだなとやっと意識できる。
みうらじゅん氏がまだ世に出る前、
三浦純として生きていた時代から始まっているやり方としての
みうらならどうするかな?という感覚に似ています。
もうひとりのわたしに後押ししてもらう感覚です。
深々と考え込みながらも
だからわたしの考えは間違ってない!
みたいな弱気なくせに強気な
10代を過ごしました。
人との距離についてもうひとつ。
名前を呼ぶ時、わたしはさん付けで呼ぶのがとても好きです。
相手を尊敬している感じもあるし、
馴れ合いがないところも気に入ってます。
知り合ってお互いの関係がうちとけて慣れてくると、
親しみを込めてちゃんで呼ぶことが多くなります。
ですがわたしはむしろ距離を感じる。
長く付き合うであろうと思われる人間関係は
一線を超えないことがとても大切だと思っているんです。
深い付き合いの友人は、
親しき仲にも礼儀ありと
あえて苗字でさんづけと決めていて
古くからの友達はさんづけで呼んでいる。
元々友人なのだから、近しい関係なんだけれど、
敢えて一定の距離を保つことは
お互いの関係性においてとても重要だと思っています。
でも、少し仲良くなるとみんなフランクにしたがる。
少し距離が無いとぎこちなくなった時に
もう距離を縮めることが難しくなるから、
距離に余白がある方がいいなと思っています。