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チュコフスキー『生きてるように生き生きと』:第2章「見せかけの病と本物の病」Ⅴ
※以下、Ⅴ節の抄訳。
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一般的に馴染みのある言語をめぐるわたしたちの現在の論争において、なによりもまず驚くべきなのはその並外れた情熱性である。
ロシア語がだめになっていないか、ロシア語はその美しさをだめにする言葉で汚れていないか、といった問題に話がなるやいなや、一番穏やかな人々は突然かっとなりはじめる。
夏の川の上で誰かが言った2つのフレーズが耳に達したときに味わねばならなかった苦痛にみちた気持ちについて、作家のコンスタンチン・パウストフスキーが──まるで大惨事が起きたかのように!──どのような悲劇的な声で話しているかを、聞いてみてほしい。
「泳ぐのをやめなさい!(Закругляйтесь купаться!)」
「制限時間を守りなさい!(Соблюдайте лимит времени!)」
これらのフレーズを作家が耳にするやいなや、彼になにか恐ろしいことが起こった。
「この言葉のせいで、眼のまえの太陽がまっ暗になった。どういうわけかあっという間に目がくらみ、耳が聞こえなくなった。わたしは水のしぶきや大気がもう見えず、クローバーの香りや橋から魚を見ている白みがかった金髪の少年たちの笑い声を聞かなかった。わたしは恐怖すら感じた……」。まことの怒りから(むろんわたしはこれに心より深く同情するが)、作家はこのフレーズを言った人を、犯罪的なシニシズムの罪で非難し始めたほど、熱っぽく憎悪したのだった。彼は書いている。「生き生きとした明るいロシア語をゴミの話し言葉に置き換えるために、自分の国や自分の民衆にたいしてどれほどの冷たい無関心に、そしてロシアの歴史やその現在や未来にたいしてどれほどの無学と投げやりな態度に、到達することが必要なのだろうと、わたしは思った」[パウストフスキー「生ける言葉と死せる言葉」『イズベスチヤ』1960年12月30日]。作家が耳にした2つのフレーズについての彼のこの厳しい断定にたいしてどう考えようとも、この断定が、熱烈で不安にみちた、言うなれば、馴染みのある言葉をめぐる現在のわが国の会話と論争すべてを飾っている荒れ狂う気持ちにとって、非常に特徴的であることを、見ないわけにはいかない。
べつの作家ボリス・ラブリニョーフは似たような言葉にたいして、もっと熱っぽく情熱的に憎悪をあらわしている。
彼は書いている。「次のような片輪のロシア語を聞くことは、わたしを物理的に痛めつける。すなわち、勉学のかわりに勉学、アイロンがけのかわりにアイロンがけ、ある時間/何度か読むのかわりに読む。このように話す人々は、偉大な、力強い、誠実な、自由なロシア語を殺す者たちである、そのロシア語の上で非常にきれいに、その生き生きとした響きへの愛をこめてレーニンが話し、書いたのである。故フョードル・ワシリーエヴィチ・グラトコフが、たとえば、рекуの言葉の上に正しくないアクセントを置いたり、あるいはпара минут, пара днейという表現を使ったあらゆる人々にたいして、いかに非妥協的な敵をこめて接していたかを、思い出すだけで十分であろう。(……)」
こうしたケースをわたしはとてもたくさん見てきた。あるひとたちは眼前でとにかくロシアの話し言葉が歪められると、苦しみ、胸をつかみ、耐えがたい苦しみを味わうのである。
おまけに、歪められた言葉とフレーズと一緒にかれらが、こうしたフリークスを話し言葉にもちこんだ人びとをしばしば憎んでいることは注目すべきである。
「眼をえぐり取ってやる、このあばずれ」と、ある年老いた女性(ふだんははなはだ温厚な人なのに)が言ったことがあるが、それはとある乙女が心から喜んで友人に次のように叫んだときであった。
「見て、なんて豪華なお葬式なんでしょう!」
本当にこの乙女は低俗さを具現していた。豪華なお葬式という彼女の叫び声は、俗物根性という最も腐い臭いをはなつ低地の跡が残っている。これのせいで──ただこれだけのせいで──老婆は彼女の言葉にたいしてかかる敵意をこめて接したのであった。
なぜなら、とても多くの場合、あれこれの口語表現は、それ自体ではなく、主としてそれを生み出した環境と結びついており、われわれに愛おしく感じられたり、嫌な感じをあたえたりするからである。
才能のあるわが国の文献学者の一人は、まだ20年代にこのケースをうまく話した。
彼は話す。「これは、言葉との闘いではなく、言葉の背後にあるもの、つまり精神的な空虚との闘いであり、言葉で思想と良心のほころびを閉じる試みとの闘いである」。より詳しく言うと、同じことについてである。
(……)
概してこれらすべての手紙──ひとしく賢くて盲目的な──に特徴的なのは高ぶった感情と興奮である。読者たちは新聞のだらしないジャーゴンを非難しているのだろうか、かれらは教師と生徒の話し言葉で遭遇するあの歪みの目に余る例を挙げているのだろうか、それともラジオの話し言葉のミスを指摘しているのだろうか。ハッキリしているのは、かれらのだれにとっても、これはじぶんたちが無関心に判断することのできない身を焦がす問題だということだ。
ためしに、ぼくたちがいま話していた読者たちの手紙を手にとってみよう。それらをぱらぱらと一読すると何千回もこう確信することだろう、「読者は興奮しているし、興奮させられている」と。読者はいたるところで話し言葉を歪める悪人たちや馴染みのある言語の破壊者たちの幻影を見ている。なにかの論文か本にささいな言語上のミスや、あるいは聞きなれない言葉の形式に気づくやいなや、読者はロシア語を冒涜的に軽蔑したことを摘発すべく、この論文や本の筆者に脅迫的な手紙のなかで急ぐものだ、もっとも読者のロシア語の両足が不自由であることがよくあることだが。
いちばん真面目で的を得たいくつかの手紙を選んでみると(もちろん、そうした手紙は少ないけれども)、わたしは、それらの手紙のなかで述べられている判断が、このような(とてもわかりよい)項目に簡単に振り分けることができることがわかった。
一.ある読者たちは断固として確信している。わが国の言語の一切の不幸は外国の言語にあると。それがまるで非の打ち所がない純潔なロシア語を完全に濁らせたかのように。(……)
(……)
わたしの記事に「いやらしい」という言葉を読んだとき、ノヴォチェルカッスクの年金受給者のティモフェーエフさんから急遽、上から目線のお𠮟りをうけたことがある。「この言葉は、会話であるべきではない(そのように書かれていた、あるべきではないと)、いわんや刊行物や真面目な記事ではもってのほか」。
バクーの読者のドジェブライモフさんは、わたしに同じようなお𠮟りをし、たとえばマヤコフスキーの詩のなかで出くわすようなブロークンなものからロシア文学が一刻も早く解放されるように、手紙のなかで希望を述べていた。この人はこう書いている。「『ズボンをはいた雲』とか、「ぼくは狼のように官僚主義にかみついた」とか、「ぼくは広いズボンから取りだす」等々が、これらが果たしてロシア語の習得にとって価値を与えることなどできようか?」(?!)
六.六番目の人たちは、たとえば、注目すべきメラスと同じように、憤慨するに違いない。もしどこかの著者が記事か本のなかで、自分たちの言葉の理想をなす事務的な文体から離れた、より新鮮で表現力豊かで型にとらわれない言葉を使ったらの話だが。こんな読者は少なくない。このような読者の要求をこう定式化できるだろう。すなわち、古臭くて、紋切り型の、色彩に欠けた言葉をもう少し、少しも絵画的でも生き生きとしていない言葉を!
七.七番目の人たちはОблупрпромпродтовары、Ивгосшвейтрикотажупр、Урггоррудметпромсоюз等々の複雑な造語に襲いかかる。さらにТЮЗ, Детгиз, диамат, биофакのようなものすら巻き添えをくらう。
もちろん、自分たちの馴染み深い言語やその繁栄と美と健康についての、現代の読者たちのこの配慮は感動的だ。
しかし、彼らの診断は非の打ち所がないものと考えることはできるだろうか? ここにはなにか意図せざる誤りがないか? と言うのも、医学ではこういうことがよく起こったからである。見せかけの病は治療されたが、本物の病は診断されず、指摘されなかった。患者は医師のこのような勘違いのせいで、みずからの生命に大きなお金を支払う羽目になった。
このことについては、コロレンコとゴーリキーが高く評価していたゴルニフェリドがすばらしく言っていたものである。
彼はこう書いている。「二つ三つのたまたまの観察に基づいて、現象の意味を少しも掘り下げることなく、愛国的でナショナリズム的で、美的なあるいは傲慢なうめき声が突然響いてくる。言語は危機のさなかにある、と──そして警鐘を鳴らした者は確信している、たとえしかるべき影響がないとしても、いずれにしても、この者の呼びかけに幾多の思い悩む魂が同情のため息をつきながら反応してくれるだろうと。この魂は、新しい表現に不満をもっているが、実のところそのなかの何が悪く、何が必要なのかを、ほとんど理解できていない」[21]。誰も異論あるまい。わが国のいまのロシア語は実のところ治療を必要としている。ロシア語はもうだいぶ前から相当不愉快なある病にしばられており、その強靭な力はしだいしだいに衰弱していった。しかし、この病に注意が向かうことは稀だ。その代わりに倦むことなく思い上がったまま、病人の、存在しない、架空の病が治療されている。
このことを証明することはとても簡単だ。ひたすら丁寧に、注意深く、読者に十分なリスペクトをもちつつ、病を一つずつ検討することが必要である。わたしたちは、この病からわが国の言語を救うよう求められている。
それではこのような検討に着手していこう。
〔第2章おわり〕