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リモーノフ『聖なるモンスターたち』:抄訳

ボリス・サヴィンコフ:テロリスト

サヴィンコフがイワン・カリャーエフと知り合ったのは幼年期に遡る。サヴィンコフは彼のことを「ヤーネク」と呼んでおり、『一テロリストの回想』のなかで、カリャーエフのニックネームであった「詩人」との会話をたくさん述懐している。二人のあいだには信じあう兄弟という感動的な関係があり、サヴィンコフはカリャーエフを尊敬していた。

『一テロリストの回想』を読むと、重くて危険な爆弾を不平ひとつ言わずに運搬した人間について、その驚くべき事実を知ることになるだろう。この爆弾というのは、ガラス管がちょっと損傷するだけで爆発反応が引き起こされるのだ。この自殺者たちは完全に道徳的で純粋な人びとであった。テロ攻撃で間違いなく死ぬか、生き延びたとしても絞首台で死ぬか、いずれかしかない。にもかかわらず、戦闘組織の指揮官であったボリス・サヴィンコフは「テロ活動」の覚悟ができている人びとをつねに見つけ出した。こういう人びとはつねにいるものだ。『一テロリストの回想』は、不穏にみちた事実を物語っているとはいえ、じっさい冷静な文体で描写されている。エヴノ・アーゼフとボリス・サヴィンコフは、人びとのグループを集め、作戦資金を調達し、ダイナマイトを製造する化学者を見つけ出し、ツァーリの行政機関の要人の抹消を目的とする、組織的な犯罪グループを事あるごとに結成していた。屋外での監視は、戦闘組織のメンバーであるエスエル党員によって担われ、彼らは御者や商人に変装していた。あるときは、アーゼフのイニシアティブによって、身元を隠すために家族を偽ったほどである。夫はボリス・サヴィンコフ、妻はハリコフ出身の革命家ドーラ・ブリリアント、御者はサゾーノフ、料理人は老革命家イワノフスカヤ。サヴィンコフによれば、こうした屋外での監視方法は不完全なものであったという。彼は自著のなかでこの点で繰り返し自分を責めているが、わたしが思うに、アーゼフとサヴィンコフはこの分野において現代の特殊部隊の多くを凌駕している。もっとも、個々の高官の出発情報を収集するのは手間のかかる作業であり、ターゲットに簡単にアクセスすることと著しい対照をなしている。近づいて、投げる。サゾーノフは爆弾をプレーヴェに投げ、カリャーエフは大公に投げた。今なら、大臣が向かう先の出発情報は通信社のニュースから簡単に知ることができるが、大臣に近づこうとしても警備隊によって仕切られており、接近は絶対に不可能だ。

サヴィンコフの回想から判断するに、エヴノ・アーゼフは何よりもまず革命の側にいたと考えられる。驚きなのは、真実が明らかになっていないとか、彼はスパイでもあり革命家でもあったとか、そんなことが今も言われていることだ。彼は革命家だった。が、テロルを続けるために二次的な人びとや二次的な暗殺を差し出すことを余儀なくされたのである。これは、サヴィンコフの本だけを読んでも明らかなほどである。

サヴィンコフ、カリャーエフ、そしてその他のエスエル党員や戦闘員。彼らを突き動かしたのは何だったのだろうか? それは自分の力から来る恍惚感であり、この力を具体的に誇示する可能性である。

感動的なのは、ただの死すべき者と同じく、彼らもまた多くのことに躓いたということだ。彼らの自家製の爆弾は装填するときも取り外すときも爆発した。実行者たちの神経は耐えられず、ある者は世を去った。つまり、すべて現代人と変わるところがない。

『回想』や小説『蒼ざめた馬』と『漆黒の馬』から判断するに、サヴィンコフはドーラ・ブリリアントと親密な間柄にあった。彼女は涙もろく、重度のうつ病のようであった。興味を引かれるのは、『回想』と小説ではブリリアントの描写が異なっていることだ。

『回想』では主人公の友であり仲間なのに、小説では息の詰まるような、嫌な感じのする、嫌悪感を催す女性である。サヴィンコフは嫌悪感を抱きながら彼女と暮らしたのだろうが、しかし彼女が必要だった。ここには何やら謎がある。セックスだろうか? 恐怖心からだろうか? 恐怖心からセックスしないといけなかったのだろうか?

二月革命後にサヴィンコフが臨時政府のコミッサールとなり、次いでエスエル右派と共にコルチャークと規則正しく協働したということ。彼は力に満ち満ちた人間であり、ここで活動のフィールドを偶然手に入れたのである。あまりにも俗世的な彼はボリシェヴィキのタイプではなかった。ボリシェヴィキはもっと単純であった。

もちろん、この人間は驚くべき巨石であった。まったく国定記念物そのものだ。カリャーエフも驚くべき、率直に驚くべき人であり、純粋に信仰心をもったロシア的タイプとして義しい人である。彼に似ているのは我らが詩人のセルゲイ・ソロヴェイだろう。ソロヴェイはリガの事件で懲役15年が下されて、4月30日に有罪判決を受けたばかりである(陰謀家というものは、陰謀や企ての中身がどうであれ、みんな似た者同士なんだろう)。

じっさい『一テロリストの回想』はドストエフスキーのどの巻よりも奥が深くて力強い本である。「テロ活動」の一参加者でありながら、サヴィンコフ-ロープシンはまた巨大な作家でもある。『回想』には気取っていない、唯一可能なトーンがある。サヴィンコフはグミリョフにちょっと近いところがある。二人とも帝国主義者であり、戦士であり、ヨーロッパ人であり、美学的にファシズムと近いところにいる。ここで言うファシズムとは、ムッソリーニの姿をしたイデオロギーではなく、銃の爆発や機関銃の連射から繁茂した花々を賛美した未来派のマリネッティのファシズムのことだ。『一テロリストの回想』はファシズム登場前の英雄的な本である。エスエルの超人たちがどれだけ社会的な大義の下に身を隠そうとしても、じっさいそれは一握りのスーパーマンたちと国家エリートとの一騎打ちであった。カリャーエフもサゾーノフもサヴィンコフもアーゼフも、みんな眩しいくらいファシストだ。彼らはイデオロギーの人びとの側に立ち、血と牢獄の匂いを嗅ぎながら、おのれの偉業を成し遂げる覚悟がある。サヴィンコフ本人を見ていると、グミリョフと同じように、その冷静沈着さと短く刈り上げた頭から、ストイックなニーチェ主義者の面影がうかがえる。顔から明らかなのは軽蔑の念である。興味深いことに、グミリョフの詩にはミルバッハ大使を殺害したブリュムキンが出てくる。「人混みの中から男が一人/帝国の大使を狙撃した男/ぼくと握手をするためにやって来た/ぼくの詩に感謝を伝えるために」。エスエル党員であったブリュムキンは、チェキストの任務を帯びて海外にいたとき、すでにボリシェヴィキ党員であるにもかかわらず、サヴィンコフに対して、わたしのことをどう思っているか、あなたの意見が聞きたいと丁寧にお願いしている。すでに見たように、「あいつらの多くは強くて、悪賢くて、陽気で/象や人間をぷち殺す」。こうした人びとを支えるイデオロギーとは狂犬病のような情熱であり、ファナティックで特別な人間個我という排他的なイデオロギーなのである。自分のことをファシストだと名乗る必要はあるまい。もっとも、グミリョフの作品に「ダンヌンツィオに捧ぐ頌詩」という露骨なものがあるけれども。


(ひとこと)
リモーノフお気に入りの偉人についてのエッセイ集『聖なるモンスターたち』(Священные монстры, 2001)から。お気に入りの面子はいかにも?リモーノフらしい。選ばれているのはほぼマッチョな男性たちで、軍人や戦争犯罪人やファシストが多い。毛沢東、ドストエフスキー、サド、レオンチェフ、セリーヌ、ジャン・ジュネ、三島由紀夫、ミロシェヴィッチ、カラジッチ、ユリウス・エヴォラ、等々(意外なチョイス?としては、ソヴィエトのバレエダンサーのルドルフ・ヌレエフ、フランスのシャンソン歌手のエディット・ピアフか)。サヴィンコフはこういう男くさい軍人の面子に混じっている。リモーノフは彼の小説の有名なものしか読んでいないようだが、『一テロリストの回想』を高評価していることが目を引く。たぶんリモーノフにとってプラクティカルに役立ったからではないか。
ところでリモーノフの本名はЭдуард Вениаминович Савенко──つまりエドワルド・ヴェニアミーノヴィチ・サヴェーンコらしい。面白い奇遇だ。サヴェーンコがサーヴィンコフになんとなくシンパシーを感じていたのも無理なからぬ話かもしれない。そういえばサヴィンコフの偽名の一つはヴェニヤミンだった。おお、リモーノフの父称もどこかサヴィンコフっぽいぞ。

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