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ローザノフ『理解について』:目次、序文
※ワシーリイ・ローザノフ『理解について──全体知識としての科学の本質・境界・内的構造の研究の試み』から、今回は目次と序文(一部のみ)を訳してみた。
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目次
序文
第一本 科学の定義
第一章 科学の方法・内容・本質について
第二章 理性の概略と存在するものの諸側面について
第二本 科学の構造
第一章 認識者についての学説とその諸形式
第二章 認識についての学説とその諸形式:研究について
第三章 認識についての学説とその諸形式:思索について
第四章 認識についての学説とその諸形式:方法について
第五章 宇宙についての学説とその諸形式:存在について
第六章 宇宙についての学説とその諸形式:変化について
第七章 宇宙についての学説とその諸形式:本質について
第八章 宇宙についての学説とその諸形式:特質について
第九章 宇宙についての学説とその諸形式:因果について
第十章 宇宙についての学説とその諸形式:合目的性について
第十一章 宇宙についての学説とその諸形式:類似と差異について
第十二章 宇宙についての学説とその諸形式:数字または量について
第十三章 人間世界についての学説:創造者、あるいは精神について
第十四章 人間世界についての学説:創造、あるいは過程について
第十五章 人間世界についての学説:被創造物、あるいは生の諸形式について
第十六章 人間世界についての学説:法則、あるいは相関性について
第十七章 人間世界についての学説:善と悪について
第十八章 人間世界についての学説:目的、あるいは必要性について
第十九章 人間世界についての学説:手段、あるいは必要性に至る諸々の道について
第二十章 人間世界についての学説:到達、あるいは歴史について
第三本 科学・人間の本性・その生命との関係について
第一章 人間の本性およびその生命と科学との関係について
第二章 人間の意志と科学との関係について
結論
序文
科学におけるわれわれの諸成功が取るに足らないものである場合、科学の本質・境界・目標についてのわれわれの理解がちっぽけなものであることは、ほとんど疑いの余地がない。知識の個々の諸領域のなかで作業に没頭するとき、われわれは一つの全体としての諸々の知識に深い思考を差し向ける機会も、その必然性も、決してもつことがなかった。われわれは、われわれの獲得した諸知識によって答えられるような諸問題を提起してきたわけではないし、以前に確立された一連の別の諸知識のなかに諸問題を発見してきたわけでもない。人間の思想の偉大な建造物の建築において、われわれは製作者〔делатель〕であったが、しかし建築者〔зодчий〕ではなかった。
働き手たちにとっては、自分たちが正確に何を建設しているのか、なぜ建設されているのか、建設範囲はどこなのか、そうしたことが隠されたままである。彼らのかかる状況が、具合のよいものであるはずがない。この状況がもたらす意図せざる諸々の誤謬については、今さら言うまでないことであり、目標と終わりの見えない仕事のいっさいは疲弊させるだけなので、不快なものでもある。
だが、この条件のもとでの、意図せざる諸々の誤謬は、きわめて重要である。建設を行う人びとが、自分たちには見えていないところの計画から逸脱し、必要不可欠なものの代わりに不必要なものを築き上げてしまい、未完成のままで放置せざるを得なくなり、あるいはもっと悪いのは、すっかり更地にせざるを得なくなることが起こり得るのである。また、建設者たちからは計画が隠されてまま、彼らのあいだで計画に関する意見が一致していないばかりか、それと同時に、或る者たちは建造物の高さや美しさに心を傾けて、別の者たちはそのような建築物は頑丈でもなく快適でもないと考えるという事態も起こり得る。この場合、信頼できる働き者たちはめいめいが互いに相反することに取り組むことができるだろう。
これとなにか似たことが実際に起こったようである。知的領域において人間によって創造されるところのものは、長きにわたって、科学と哲学という二つの名を荷っている。すでに名に関するこの二重性が、疑いを呼ぶような奇妙な偏差を成している。理性が一つであり真理も一つであれば、前者の活動と後者の結合の結果であるところの異なり合う諸々の名は、どのようにして生じることができたのだろうか。だが、名の違いの背景には、現実性の違いも隠されている。科学と哲学とのあらゆる関係に浸透しているところの、深い敵対関係が示しているのは、実際のところ、理性が手中におさめた諸々のものを荷っている場である、二つの自律した領域が存るということであり、したがってそれは認識の統一が存在していないということである。
〔※以下、疲れたので訳さず〕