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ホダセヴィチ『ネクローポリ』:序文、レナータの最期

詩人・文芸評論家のヴラジスラフ・ホダセヴィチの回想録『ネクローポリ』から、その「序文」と「レナータの最期」を訳す。

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序 文

本書に所収された、何人かの最近の作家たちについての回想録は、わたし自身が目撃したことや登場人物の直接の証言や出版物や文書にもっぱら基づくものである。第二、第三者の手からたまたま得た情報は省いた。この規則からのニ、三の微々たる逸脱は本文で示してある。

レナータの最期

 1923年2月23日の夜、パリにある乞食ホテルの乞食部屋で、女性作家ニーナ・イヴァーノブナ・ペトロフスカヤがガス栓を開け、自殺した。新聞の記事で彼女はこの理由によって女性作家と呼ばれていた。しかしこのようなあだ名は彼女にどうもしっくりこない。本当のことを言えば、彼女の書いたものは量的にも質的にもたいしたものではない。彼女に少なからぬ才能があったとしても、文学に「費やすこと」を、彼女はできなかったし、重要なことに、少しもそれを望んでいなかった。しかしながら、1903年から1909年間のモスクワの文学生活において、彼女は重要な役割を果たした。彼女のリーチノスチは、彼女の名前とあたかもまったく結びついていないような状況と出来事に影響を及ぼした。しかしながら、彼女のことを話す前に、時代精神と呼ばれるものに触れておく必要がある。ニーナ・ペトロフスカヤの物語はこれなしでは、面白くないとしても、理解しがたいであろう。

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 シンボリストたちは作家と人間を、文学的伝記と個人的伝記を分けようとしなかった。シンボリズムはたんなる芸術的な学派や文学的潮流であろうとしなかった。つねにシンボリズムは生‐創造の手段になろうとやっきになっていた、そしてそのなかにシンボリズムの最も深く、ことによると、具象化されない真実があったかもしれないが、この真実をつねに追求することのなかに、本質的にその全歴史が流れていた。これは、生と創造の一体化や芸術にかんする一種の賢者の石を探求するという、時には真に英雄的な一連の試みであった。シンボリズムはそのただ中で、生と創造を一つに混ぜることのできる天才を粘り強く探し回った。われわれは、そのような天才が現れず、公式も発見されなかったことを、いまだと知っている。事は、次の点に集中した。つまりシンボリストたちの歴史は壊れた生の歴史に変わり、彼らの創造はあたかも十分に具象されなかったようであった。創造的エネルギーの一部と内的経験の一部は書かれたもののなかで具象したが、一部は十分に具象せず、不十分な絶縁のもとで電気が流れるように、生のなかに流れていった。

 この「漏電」のパーセントは、様々な場合で異なった。それぞれのリーチノスチの内部で、「人間」と「作家」が優位を争った。時折一方が勝利し、時折他方が勝利した。勝利は、より才能があり、より強く、より生命力にあふれたリーチノスチのほうがしばしば得た。もし文学的才能のほうが強いとすれば、作家が人間に勝利したであろう。もし生きる才能が文学的才能より強いとすれば、文学的創造物は後景に退き、別の生の秩序の創造物によって抑圧されただろう。一見すると奇妙に思えるが、本質的には首尾一貫していたのは、当時、その人々の間では「書く才能」と「生きる才能」をほとんど一つのものとして考えられていたことだ。

 初めて『太陽のようになろう』を出した時、バリモントは、とりわけ、「みずからのリーチノスチから詩を創った芸術家モデスト・ドゥルノフに」献辞を捧げた。当時これは少しも空虚な言葉ではなかった。これらの言葉のなかでは時代精神がとても描かれている。芸術家にして詩人のモデスト・ドゥルノフは、芸術において痕跡を残すことなく過ぎ去った。いくつかの弱い詩といくつかの重要でない表紙と挿絵、それで終わり。しかし彼の生涯について、リーチノスチについて、伝説ができた。みずからの芸術においてではなく、生において「詩」を創る芸術家は、当時は正当な現象であった。だからモデスト・ドゥルノフは一人ではなかった。彼のような人はたくさんいた。ニーナ・ペトロフスカヤもここに含まれる。彼女の文学的才能は大きくはない。生きる賜物は計り知れないほど巨大である。

  貧しく 偶然にみちし人生より
  我 際限なく震えたり……

 彼女は完全な正しさをもって、自分自身のことをこう言うことができたであろう。みずからの生から彼女はまことに際限なく震えていたが、創造物からはなにもうまれなかった。彼女は他の人よりも巧みに断固として「みずからの生から詩を」作り上げた。付け加えておくべきことは、彼女自身についての詩も書かれたことだ。しかしこれについては後述する。

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ニーナはじぶんの年齢を隠していた。彼女はおおよそ1880年代の生まれだったと思う。ぼくたちが知り合ったのは1902年だった。ぼくはすでに彼女が駆け出しの作家であることを知っていた。おそらく役人の娘のようだった。ギムナジウムを卒業後、歯科治療課程を修めた。ある人の許嫁だったが、別の人と結婚した。彼女の若い時期にはドラマがあったが、そのことを思い出すのを彼女は好まなかった。一般に、彼女の生涯で「文学の時代」が始まる前の、じぶんの若い頃を思い出すのを好まなかった。過去は彼女にとってみすぼらしく、憐れに思えたのだった。彼女はシンボリストやデカダン派の人びとのなかに、『蠍』や『禿鷹』のサークルのなかに身を置くことではじめて自分を見つけた。

 そう、ここで彼らは彼女の生活とは似ても似つかぬ、特別な生活を送っていた。もしかすると、そもそも似ていないのかもしれない。ここでは芸術を現実に、現実を芸術に、変えようとしていた。生の出来事は、これらの人びとにとってのリアリティが輪郭をあらわす、不明瞭で揺れ動く線のせいで、ひたすら、そして、たんに生の出来事としては、いちども経験されなかった。それらの出来事はすぐに内的世界の一部分に、創造物の一部分になった。逆に言えば、誰が書いても、全員にとってリアルな、生の出来事になった。このように、現実も、文学も、この異常な生活に、この「象徴的次元」に身を置くすべての人の、あたかも共通の、時には憎悪しあうが、敵対しあうなかで団結した力のように創造されたのである。それは、集団的創造行為の本当のケースだと思われた。

 彼らは生きていた、狂乱的な集中状態のなかで、永遠の興奮状態のなかで、緊張感のなかで、熱病のなかで。彼らは一度にいくつかの面で生きていた。つまるところ、彼らは、愛と憎しみ、個人的なものと文学的なものの共通の網の中で複雑に絡み合っていた。じきにニーナ・ペトロフスカヤは、中心的な結び目の一つに、その網の主な結び目の一つになった。

 回想録の書き手としてふさわしいように、わたしは「彼女の自然な性格を概説する」ことができないだろうか。1904年にモスクワのシンボリストたちと会うためにやって来たブロークは、母宛の手紙で彼女についてこう書いている。「とても愛らしく、非常に賢い方です」。このような定義は何も説明していない。わたしはニーナ・ペトロフスカヤを26年間知っていた、善良で邪悪、……〔※以下、飽きたので翻訳終了〕

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