ヨルシカ/音楽泥棒の自白 が、小説のなかで流れたら
カチャリ、というスイッチ音から、ジリジリとノイズが流れる。アナログレコードを模した演出だろうか――いや、同時に鳴っている音は、フィルムを回す映写機のように聴こえる。音だけでなく映像まで含んだ物語を、これからはじめるのだという意志が伝わる。
もちろん僕が味わっているのは、あくまでも「音」にすぎない。映像にまで思いを馳せるのは、その昔、余計な「音」を発生させながら映像を流していた時代があってくれたおかげだ。
和音でフェードインするストリングスも、古い時代の録音に聴こえる。スライドされた音程の上げ幅は、スーパーファミコン用タイトル、「F-ZERO」(1990年 任天堂)の、スタートを切る直前の効果音を思い出させる。これももう十分に古い時代の音源だ。
フィルムのはずの映像が、電波で飛ばされていたかのような、再生の乱れる音でゆらぐ。「ササ」と「ザザ」の中間の響きで音楽が切り替わる。
濁点とはよくできたものだ。「ザザ」は「ササ」が濁った音でしかありえない。濁りの量やその成分は、無限のグラデーションでバリエーションが広がっている。ところが、英語圏での「Z」と「S」はまったくの別物らしく、僕にとってはいつまでも不思議なことだ。
替わって流れてきたのは、悲しげなコードを奏でるピアノのアルペジオ。わかりやすい情感に浸りかけると、わざと外した音階のサックスが、茶々を入れつつ、冒頭からのジャジーなムードを引き継ぐ。
ギターのコードや女性ヴォーカルのスキャット、ガラスの割れる音、そしてさっきの再生の乱れが、夢の中のイメージのように、あらわれては消えていく――と言いながら、僕はそんな夢を見たことはないし、これも夢の中のような「演出」だと思うしかない。バスドラムが不気味な足音のように忍び寄る。
背景で鳴っていた機械じかけの音が、徐々に速まり、ボリュームを上げてスッと消える。鈴の音がかぶさったようにも聴こえる。合わせて盛り上がっていたピアノも、ひとり残されて静かにテンポを落とす。
ノイズが消えていくと、ベートーヴェンのピアノソナタ「月光」が奏でられる。思えばピアノが鳴らしていた音は最初から、この曲に使われているものばかりだった。気づけなかったことが、少し悔しい。
音によって映像まで表現しようとする試みに、視力を失いながら作曲を続けたベートーヴェンの曲が取り上げられている。たまたまの符合なのだろうけれど、勝手に考えすぎてみるのも楽しいものだ。全盲のピアニストである辻井伸行もこの曲を弾いているが、優れた演者がたまたま盲目であり、優れた作曲家の目が、たまたま見えなくなっただけかもしれない。
「月光」はすぐにフェードアウトしていく。入れ違いに不穏なノイズがフェードインし、音量を上げながら空間を飲みこんでいく。冒頭と同じスイッチ音がカチャリ――次曲への、そしてアルバムのイントロダクションとしての働きが全うされた。