見出し画像

酔灯夜話 #51

ここ数年、民主主義を標榜する国家といわゆる覇権主義国家との分断が国際社会で大きな問題となっており、私自身改めて民主政とは何か、について興味を持つに至った。そうした背景でテーマとして「①古典期アテナイにおける民主政の発展」を選択し、なぜギリシアの地で今からおよそ2500年前に、そのような政体が生まれたか、また現代の民主国家の今後を占ううえで、古代ギリシアの民主政と現代の我々の民主政との相違点と現代の我々に対する示唆となることを見出したい。
 ギリシア人がバルカン半島南部に侵入・定着した紀元前2000年ころ、東地中海のクレタ島では、系統不明の民族がクノッソスの「迷宮」に象徴される強力な王権のもとで独自の文化をつくりあげていた。ギリシア人は、このクレタ文明や先進オリエント文明に学びながら、ミュケナイをはじめ各地に小王国を形成し、青銅器文化を発達させた。ギリシア人の勢力はやがてクレタにもおよんだ。近年解読された文書によれば、これらの諸王国は、初歩的な官僚機構をそなえ、民衆から貢納をとりたてるなど、オリエント的な専制王国へと発展する素地をもっていた。しかし紀元前1200年ごろミュケナイ時代が終焉を迎える。従来はドーリア人の侵入の際に彼らによって攻撃されて滅んだという説や、エジプトを攻撃した「海の民」が東地中海全域で猛威を振るっており、その犠牲になったという説がある。ほかにも民衆反乱説、気候変動説、内部崩壊説、地中海沿岸域全体を巻き込んだシステム崩壊説など諸説が林立しておりいまだ大きななぞとなっている。未だなぞとなっているその原因は大規模な建造物だけでなく長期間続く定住地が消滅していることや、そして文字による記録の消滅によるところが大きい。そのためミュケナイ時代の終焉からポリスの誕生までの約400年間はいわゆる「暗黒の時代」とされている。この時代はその後の「純粋ギリシア」が誕生するために必要な長い準備期間とも言える。そして紀元前8世紀には各地に都市国家(ポリス)がうまれた。ポリスは共同体国家であることを大きな特徴とし、マケドニアによる征服に至るまでギリシア人社会の基本的単位であり続けた。だがその成立過程の解明は同時代の文字資料が無いため困難を極めている。一つの仮説としてギリシアの地形について山岳が多く平野がその間に散在していることが理由とされていたが、地形によって説明できない場所もある。それ以外の考えられる理由として、前述の地形の特徴に加えて降雨量が少ないため、主食となる穀物を中心とした農作物の栽培に適さず、オリーブやブドウといった果樹栽培が発達した。そのため主食となる穀物を入手する為に果樹および果樹加工品を輸出し、穀物を輸入していたと考えられる。このような生活の特徴から、輸出輸入における取引の知恵など有力者を中心に出し合い集団で生活を行うようになり、自然発生的に有力者を中心とした貴族政ポリスが成立したと考えるのが自然であるように思われる。その後ギリシアの諸ポリスは紀元前8世紀半ばから約200年間、市民の一部を地中海・黒海沿岸一帯に送ってさかんな植民活動を行った。その結果、ギリシア人の世界はいちだんと広がり、海上交易が促された。経済の発展に伴い商人・手工業者・農民の力がしだいに向上し、やがて彼ら平民が貴族に代わって、そのころ確立された重装歩兵制の主な担い手となった。その背景として考えられるのは、それまで貴族たちが国防の担い手であったが、工業の発達により武具が比較的安価で入手できるようになったこと、戦争における戦術が重装歩兵制に変わったことで、一人の英雄による戦いから集団での戦闘となったことから、経済的に力をもった平民(商人・手工業者・農民等)が自費で武具を取り揃え、戦闘にも参加できるようになったと考えられる。そうして軍事的役割が増した平民は、政治への参加を主張して貴族と争うようになった。アテナイでは紀元前6世紀初めにソロンが改革を行い貴族と平民の対立を調停した。ソロンは財産政治を実施し、財産に応じて市民を4等級に分け、等級に応じて参政権と兵役義務を定めた。このように財産額に応じて一般人の政治参加が徐々に認められていった。また、ソロンは借金で苦しむ市民を救うため「重荷おろし(セイサクテイア)」と呼ばれる負荷を帳消しにするなど、債務奴隷の解放や債務奴隷の禁止を定めた。債務奴隷とは借金を返せなくなったために奴隷になった人のことである。ソロンの改革で貴族と平民との対立は一時的に調停されたが、力を付けた平民はなおも現状に不満を持ち続けた。その平民の不満を背景に改革後のアテナイは大いに混乱することとなり、執政官であるアルコンが選出できない事態や、任期をこえてアルコンに就任する人物が出るなどの事態が頻発するようになる。そこで有力者たちは益々権力闘争を激化させ、それぞれ支持者を率いて徒党を組んで衝突し合うようになった。ここで台頭したのがペイシストラトスである。紀元前561年ごろ僭主政治を行ったことで知られるペイシストラトスによる改革が行われた。僭主とは独裁者のことでペイシストラトスは平民の支持を得て非合法な手段で政権を獲得した。しかしその政治は「合法的な」政治であった。彼が行った改革は亡命貴族の土地や財産を貧民に分け与え、中小農民の保護し育成したりするなど行った。また農業振興策やアテナイ土木建築事業を盛んにし、アテナイのエーゲ海域への進出も図るなど平民から絶大な支持を得て、「クロノスの時代」(理想的な時代)とさえ讃えられた。しかし前527年にペイシストラトスが死去すると彼の二人の息子に権力が継承されたが、二人のうちの一人が個人的理由で暗殺されたあと、残った一人の息子は残酷な暴君と化したため、前510年に蜂起したアテネ市民によって追放され、ペイシストラトスの僭主政は一代で終わり、アテネ市民は僭主の出現を防止する策の必要性を認識するに至った。そのために行われたのが前508年のクレイステネスの改革であり、アテネの民主政が完成の域に近づくこととなる。クレイステネスは民主政を強化するために従来からの血縁に基づく4部族制を解体させ、代わりに人口密度に即した「デーモス」に分けてそれらの組み合わせでもって10の部族制を新たに作り上げた。デーモスとは住んでいる地域をもとにした、一つの政治の単位のことで現在の我々も地区町村を単位として選挙で代表者を選んでいるが、それとよく似た単位でクレイステネスは居住地域を行政単位にすることで、事実上の貴族政の解体を狙ったものでより民主的な政治を行おうとした。さらに僭主となるおそれのある人物を投票で追放する陶片追放(オストラシズム)の制度ができたのも、このときのことと伝えられている。クレイステネスは市民の投票で独裁者の出現を防止しようとし、市民投票制度の始まりとも見られる。アテナイが民主政の確立しつつある頃、2度にわたってアケメネス朝ペルシアは版図の拡大を図ろうと、大軍を送りギリシア本土に侵入した(ペルシア戦争)。このときまでに市民全員が政治と国防にあたる体制をつくりあげていたギリシアの諸ポリスは、スパルタとアテナイを先頭に一致してペルシア軍を撃退し、近代オリンピック競技の「マラソン」の起源となったマラトンの戦い(紀元前490年)や、ペルシア艦隊に大勝したサラミスの海戦(紀元前480年)が史上名高い。ペルシア撃退の主役となったアテナイは、その後多数のポリスとともにペルシア軍の来襲に備えてデロス同盟を組織し、その盟主となった。同盟国は軍船もしくは同盟貢租を払うことを義務付けられた。政策については同盟各国が平等に発言権を持つものであった。その後、外交上正式にペルシアとの戦争は終結し同盟の存在理由も消滅したが、アテナイは同盟を解散させず、むしろしだいに加盟諸ポリスへの支配を強め、東地中海一帯に力をふるい、後世「アテナイ帝国」と呼ばれる支配機構に変容した。国内では軍船の漕ぎ手としてペルシア戦争に活躍した下層市民の発言力が増した一方で、クレイステネスの改革後なお伝統的な貴族の勢力も温存されるなど、国制として民主政は未完成であったが、紀元前5世紀なかばペリクレスの指導のもとに民主政が完成した。その民主政の基本となるのがアテナイの最高決議機関である民会で、18歳以上の成人男性市民で構成され、女性は参加することができなかった。その理由はギリシアでは女性は男性に比べて不完全な人間だといった、考えが支配的であったことに加えて、戦争で活躍(武器を買って実際の戦闘への参加や、武器を買う資金の無い人は船の漕ぎ手になるなど)するのは男性であるからという考えに基づくものである。その民会は直接民主政によって執り行われており、先に述べた18歳以上の男性は民会に赴いて各自が直接意見を述べることができた。さらに30歳を越えた市民は抽選で陪審員に選ばれ、裁判への参加ができるようになった。ただしアテナイの直接民主政は奴隷制度に立脚していたということも重要な点である。それは日常の生産活動は奴隷が主に従事しており、市民は政治活動に十分時間を割くことができたことが背景にある。このようにアテナイの民主政は現代の民主政治とは大きく異なっていた。紀元前5世紀後半、ギリシア世界の主導権をめぐってアテナイとスパルタとの間にペロポネソス戦争(紀元前431年~紀元前404年)がおこった。ギリシアを二分したこの戦争はスパルタ側の勝利に終わった。加えてアテナイを疫病が襲い、これによりペリクレスが命を落とすなど政治は混乱し、民主派と寡頭派の対立などあったが、紀元前4世紀初めアテナイの民主政を再建した。その後アテナイ民主政は、紀元前322年のラミア戦争後、マケドニア進駐軍によって強制的に廃止される。だがその後も民主派は何度も蜂起し、民主政を復活しては外部勢力に潰されるということを繰り返しながら、最終的にはローマの属州の一部へと変容していく。民会などの意思決定機関は、そこに参加できる人々の範囲を変えつつも、しぶとく生き残る。しかし終焉を迎えるのは政治の実権が、そのときどきの外部勢力と結んだ富裕層の手中に掌握されるようになったのが、この時代の特徴であった。財政の不足は要職にある市民の拠出で補う、いわば従来の公共奉仕に代わるこのような制度がいやおうなしに富裕者による政権独占へと導くのであった。きたるべきローマによるギリシア支配はまさにこのような構造のうえに成立することになるのである。
 次にアテナイの民主政から我々が学び取れる点について、澤田典子氏の著書「アテネ民主政-命をかけた八人の政治家」に記していることを参考に述べてゆきたい。アテナイの民主政で当初は名門貴族たちが国政を壟断しており、文字通り世襲政治家の時代であった。政界は強力な「地盤」「看板」「カバン」を世襲する政治家一家の独壇場であった。「地盤」は貴族たちの姻戚ネットワーク、「看板」は名門の家柄、「カバン」は莫大な富である。産声を上げたばかりの民主政において、市民たちの能動性の低い状況にあっては、政界における世襲はいわば必然であった。世襲制と表裏の関係にある、求心力を持つ排他的支配力が、草創期の民主政を支えていたのである。しかし民主政の進展に伴って民主政の原則と本来矛盾する世襲制は、次第に打破されていくことになる。弁論術という新たな切符の登場により、「地盤」「看板」「カバン」を持たない新参者にも、政界への新規参入の道が開かれたのである。そして紀元前4世紀後半になると世襲政治家はアテナイの政界からほぼ姿を消すにいたる。民主政の進展に伴って世襲制を打破していったアテナイの政界の歩みは、世襲議員の跋扈が問題視され、国会議員の世襲制限の是非が取りざたされている現代日本の政治の在り方を考えるうえでも示唆に富むように思われる。ギリシアの民主政当初のアテナイの名門貴族のような、閉鎖的で排他的な特権集団である世襲一族による世襲政治がクローズアップされる日本の現状、もちろん世襲は一概に「悪」とは言えず、伝統の継承、信用や結束力の維持、社会の安定化など、世襲ならではのメリットもある。しかし政治の世界においては、優れた人材の新規参入の機会を阻み、公平に競い合う土壌を失わせて政治の劣化を招き、ひいては社会の閉塞感を増し、社会全体の活力を奪ってしまうことになりかねないというデメリットも大きいのである。この問題点は「失われた30年」と言われ、国力の低下が指摘されている我が国においてもその原因の一端を示しているようにも思える。一方アテナイにおいて世襲政治から脱却できた一つの要因として、アテナイの政治の基本理念に健全なアマチュアリズムが存在していたことである。ただしこれはあくまでも成年男子市民が3万人から4万人という小社会であればこそ実現できたのであり、この理念をそのまま現代の代表制民主主義において実践できることは困難である。アテナイの民主政と現代のそれとの差異はあまりにも大きい。しかしその差異を明確に見極めた上で、現在の民主主義体制について考え直す手がかりをアテナイから引き出すことができるのではないか。アテナイで実現を見た国政指導における健全な意味でのアマチュアリズムもそうした手掛かりのひとつといえるのではないか。政治家は閉鎖的な利権集団、制度化された専門的な利権集団であってはならないのである。閉鎖的な特権集団であれば、いわば縮小再生産となり、いずれは人材が枯渇してしまうのは必至である。アテナイの政界かが閉鎖的でなかったからこそ、時代の変化に応じて必要とされる説得手段を備えた有能な人材が絶えることなくこの世界に身を投じ、政界の新陳代謝が進んだのである。小規模な対面社会でありながら、自らこの危険な政治の世界に飛び込む優れた人材を輩出し続けたこと、政治の人的素材が高い資質を保ち続けたこと、それが稀有の長さを誇るアテナイ民主政の安定と持続の一つの要因だったといえるだろう。健全なアマチュアリズムという点でいえば、我が国においては国政選挙における低投票率が示すように、一般市民と政治との距離が大きく、大部分の市民は「政治は一部の人が行うもの」との意識が強い様に思われる。そこにはアテナイに存在した健全なアマチュアリズムが入り込む余地はないが、アテナイ人が試行錯誤しながら積み上げてきた民主政の歴史を学ぶことは非常に有意であると思われる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?