闇バイトUDドライバーの刑事公判傍聴席にいた高齢の女性
特殊詐欺事件に受け子や出し子を送迎するドライバーとして加担していた元自衛官が詐欺と窃盗の罪に問われた、大津地裁での一審における4月26日の初公判および5月24日にあった判決公判の様子を伝える記事。
以下、この記事の結末についての感想。(ネタバレ)
判決公判では被告に懲役3年の実刑判決が言い渡された。この判決公判の傍聴席の様子を伝えて、記事は締めくくられている。
祖母だった「かもしれない」なの?記者は確認していないの? と一読して思ったのだが、はてと考え直す。その情報の正確性は事件報道として必要だろうか。
記者は裏取りすべきだったか
私が当初「かもしれない」にひっかかりを覚えたのは、エモい記事の画竜点睛を欠いたように感じられたためである。ノンフィクションのドキュメンタリーとしては、被告の身内からの更生を願うコメントを取材すれば締まるだろうに。高齢の女性だけでは、詐欺事件の被害者かもしれないし、裁判傍聴マニアかもわからないではないか。
しかし私は裁判を傍聴したことがなく、地域の司法取材の様子も知らないので、記者が傍聴席に認めた他の傍聴者に声をかけて取材する機会があるのかはわからない。声をかけたところで取材を断られれば書きようがないだろう。記者ならば他に調べようはあれど、刑事犯の身内は刑事犯ではなく、プライバシーもデリカシーも配慮されるべきである。そう考えると、記者は高齢の女性が被告の祖母か否かを知っていたうえで、記事には「祖母だったかもしれない」と記載した可能性もある。
事件報道の地域社会への影響を考えるに、読み物としてのエモさは些事である。秋葉原無差別殺傷事件や京都アニメーション放火殺人事件のような社会的影響の重大な事件でもなく、数多ある特殊詐欺事件の末端の刑事公判に過ぎない。「かもしれない」という伝え方に不足はないと思い直した。
記者は裏取りしていないエピソードの記載を見送るべきだったか
となると今度は伝える必要があったのかとなるが、これは記者と新聞社の裁量範囲だろう。仲程雄平記者には、闇バイトの注意喚起のためにもエモい記事でこの事件を伝えたいという意図があったように思う。傍聴席で見かけた高齢の女性に、孫の更生を信じて大津地裁まで傍聴に来た祖母の姿を仮想した脚色は、許容したいと思う。
さしずめ西田亮介先生であれば、エモさはいらんと糾弾するところかもしれないけれど。