優しすぎる人は、ふと寂しい
こんばんは。
私の知り合いに、常に優しくて何か失礼を働いてもきちんと謝れば「大丈夫だよ」と許してくれる人がいます。
その人は、誰に対しても同じように優しいです。
常に誰にでも優しいので、ほとんど誰も、とことんまで傷つけることが無いんだと思います。
だからまた、他人に優しく在れる人なんだと思います。
その人を見ていると、私も同じように他人に優しく在りたいと思えます。
誰かを憎しんだり、怒ったり、傷つけたり、そう言うことをしない人になりたいです。
マイナスの感情から解放されているその人は、心に余裕があるので常に自分という軸がはっきりしていて、生きやすそうに見えて尊敬しています。
でも、常に誰にでも優しくて何でも許してくれるから、どこか他人への興味や関心が薄く見えて、少し寂しさも覚えます。
他人に優しく在りたいけど、優しい自分には慣れたくないなと。
ちょっと矛盾した気持ちになります。
もちろんその人も、怒りや憎しみの感情がゼロだとは思いません。
だけど人よりは確実に、その沸点が低いはずなんです。
もっと怒っていいんじゃないかな、もっと厳しくてもいいんじゃないかなとか、私よりも一回り近く上の人なのに、そんなことを思ってしまいます。
「他人に対して優しくなれた頃から、人間関係で悩むことがほとんど無くなった」
と、そう言っていました。
間違いなく正しいと思います。
いつも優しい人をわざわざ傷つけるような人は、なかなか居ないし、そう言う人の周りにはまず近寄ってこない気がします。
素敵な生き方だと思うし、尊敬しているし、情景もしています。
ただ、どこかでやっぱり、寂しいなと感じてしまいます。
優しさは許すことだけじゃないような、そんな気がしてくるんです。
もちろん、謝った人に対して畳み掛けるように怒る必要はないんですが、常に許すというのもまた違うような気がして。
優しすぎるあまりに、冷たく感じてしまう矛盾。
不思議。
私が憧れているのは
「常に優しいから人間関係が良好に進む人」
なのか、
「暖かい優しさの在る人」
なのか。
暖かい優しさは、冷たい優しさのすぐ隣のような気がして、むやみやたらに優しくするだけでは暖かさは手にできないのかもしれません。
難しいなあ。
まだよく分からないなあ。
他人に優しく在る前に、心に余裕を持つこと、自分を愛することから始めないといけないような気もします。
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