ミヒャエル・エンデ著 大島かおり訳『モモ』
たぶん『はてしない物語』と並んで、ミヒャエル・エンデの最も有名な作品のひとつだと思います。子どもの頃に読んだ人も多いのでは。
私も小学校高学年のころ読んだ記憶です。
今回、読書会の課題図書になったため読んたのですが、気がつけば、モモよりも道路掃除夫ベッポや居酒屋のやニノに(たぶん)ずっと近い年齢になってしまいました。
今読むと、かなりあからさまな現代社会批判が前面に出ていて、「思想やイデオロギーを語るために物語が奉仕してしまっている」と、あまり評価しない意見があるのもわかる気がします。
要するに、ちょっと説教くさい。
子どもの頃は、時間泥棒か何を意味するのかはよくわかりませんでした。
灰色の男たちは、形のない時間をどうやって盗んでいるんだろう?
時間を盗まれている人は、何も得していないのになぜ節約を続けるのだろう?
・・・など気になりつつ、単純にファンタジー小説として読んでいました。
でも大人になってから読むと、この描写は何を表しているのか、著者はなぜこのエピソードを入れたのか・・そんなことを気にしながら読んでしまうのです。
子どものころは、そんなこと考えもしませんでした。ただ、物語を楽しんでいたのに。
一番大事なはずのこの作品の「ファンタジー」をほとんど楽しめなくなってしまったことに気づきました。
改めて、子ども時代は手の届かないずっと遠くのことになってしまったことを感じました。
今回読んで少し不満に感じたのは、「社会批判はわかった、では、著者はどうすべきと言うのだろう?」ということです。
神様のようなマイスター・ホラの超常の力とモモの活躍で、灰色の男たちは退治されます。
でも、社会で生活する大人や子どもたちは、結局最後まで何もできません。子どもたちが決行したデモは失敗し、モモの大事な2人の友人も灰色の男たちに取り込まれてしまいます。
現実にはモモはいない世の中で、私たちはどうすべきだとエンデは言いたかったのでしょうか。そこははっきりしません。
このあたりが当時『逃避文学』だと批判された点なのかもしれません。
児童文学というのは難しいなと思いました。
児童文学は、何か「善いもの」を子どもに手渡すという使命を負っているのだと思います。しかも、子どもがそれを理解し、または理解できずとも心のなかにとどめておけるように書かないといけない。
それはたぶん、とても難しい。
現実の残酷さをそのまま書いて何も問題がない「大人の」文学とは根本的に違います。
この『モモ』でも、灰色の男たちは極端な効率主義や合理主義、または拝金主義を擬人化したものたと思うのですが、これを子どもが理解するのはかなり難しいと思います。
実際、私は全く理解できなかったし、教訓として何かを心のなかにとどめておくことはできませんでした。
そう考えると、児童文学は作り手にとって、大人の文学よりよほと困難な仕事ではないかと思えてきました。
今回、大人になってからこそ味わえた楽しさもありました。
たとえば時間の花の描写は、子どもの頃は全く印象にものこっていなかったのですが、今読むと大変美しく、モモが泣きたくなった気持ちがわかります。
どの花も同じものはない美しさで、次々に咲いては散っていくそのイメージは、この一瞬一瞬がもう絶対に戻ってこないという痛みを知る大人になって、はじめて味わえたのだと思います。
また私は、読書は著者との対話だと思っているので、大人になって、大人である著者と初めて対話できるとも感じます。
たとえば、著者が子どもに手渡したいと考えているものが何かということや、子どもを楽しませるために著者が払っている努力や工夫を感じることができます。
子ども時代には戻れない、当たり前すぎるそのことが、児童文学を読むことで思いもかけず実感されました。
そうして時間は流れていくんだと思いました。
でもそれは仕方がないし、必ずしも悲しいことではありません。
こう書いていて、時間の花にモモが見た美しさは、こういうことだったのかなと思いました。