大上裕樹個展『Inlays on the ridge』 / 作家インタビュー
まず、『昇陽窯』という窯元の長男として生まれました。
丹波という土地柄、周りを見ても同級生の5、6人は家が焼き物屋さんで、子どもの頃からお互いに「みんな家を継ぐんやろうな」っていう話をしたりとか、なんとなくイメージはしていたんです。けれども、中高生の頃はサッカーに明け暮れていて、家のことはあまり意識していなかったんです。二人の弟のうちどちらかが継いでくれれば、というくらいに考えていました。
そんな中、僕の中で雷が落ちたというかターニングポイントになったのが祖父のお葬式だったんです。祖父のお弟子さんだったり、親戚の陶芸家さんとか、いろんな方々から祖父の話を教えていただいたんですね。「こういう人やってんで」とか「昔こんな風にお世話になって」とか。それでようやく「あぁ、ここはそういう家だったんだ」という実感が湧いてきて気持ちが変わり、「よし、俺がもーらい!」くらいの勢いで継ぐことを決めました。
昇陽窯を立派にしてくれた祖父のおかげで、良い環境で陶芸ができるのも大きなアドバンテージですし、丹波焼という歴史もあり、家の歴史もあって素敵なものと思えたんですね。
細かく言いますと、祖父は別の窯元の次男として生まれたんですよ。丹波焼850年の歴史の中でも五本の指に入ると言われるくらい古い窯元で、十数代続いています。そこから分家する形でスタートしたのが祖父・大上昇の『昇窯』。その後婿養子として嫁いできた父が二代目を継ぎ、そのタイミングで『昇陽窯』と屋号を変えて今に至ります。
血筋で言うとそうですね。祖母方も市野家という昔からの窯元の家系です。丹波は市野さんと大上さんが多いんですよ。それぞれに歴史のある陶芸の家系なのでそこらじゅうに親戚ばかりです。
今でも丹波は純血な土地なんです。55、6軒くらい窯元があると言われてますけど、その中で丹波の外から移住してきた方は2軒だけです。それも15年くらい前の話です。それ以降外部からの移住もないですし、今後どうなるのかな、というのも丹波という土地で僕が見据えてる課題のひとつですね。
昔から「丹波の七変化」と言われるように、技法的には庶民の生活スタイルの変化に順応して、必要とされるものを作り続けてきた土地です。昔ながらの「赤ドベ」とか「白丹波」をやっている人も少なくなってます。電気窯やガス窯を使ったカラフルな焼き物が主流になっていますし、僕も含めた若い世代がより世間的に売れやすいものを作る傾向もあります。
丹波の歴史を紐解けば、こうした変化も含めた全てが丹波焼の特色ではないかと仰る方もいますね。
陶芸家を目指すと決めたからにはまず「祖父のような陶芸家になりたい」が第一の目標です。家族にも相談すると、父はサラリーマンから転職して陶芸の道に入ったので、「丹波だけでやると視野が狭くなるから外でいろんなものを吸収して帰ってこい」と言ってくれました。
それでサッカーもやめて、大阪の美術予備校にも通い、金沢美術工芸大学へと進みます。当時は久世健二先生が陶芸コースのトップで、オブジェ陶的なものもそこで学びました。
卒業後の進路も大学院に進むか、金沢の卯辰山工芸工房に行くかどうしようかと色々考えて、やっぱり弟子入りをしたいな、と。
インターネットでの情報も少ない当時、『炎芸術』などの雑誌で目にしていた板橋廣美先生や鈴木五郎先生に憧れがあったんですけれども、ちょうど板橋先生が金沢美大にいらっしゃることになったんです。じゃあ卒業後は鈴木五郎先生のところに弟子入りしようと心に決めて。学生時代は板橋先生にピッタリついて学び、弟子入り活動の結果、卒業後は鈴木先生の元に入門させてもらいました。
鈴木五郎先生のところに弟子入りする人は30代後半の方が多いんですね。一回社会人経験して、瀬戸の訓練校経由で先生のところに、と言う流れで、覚悟を決め切ってる人も多い。先生かたら学んだことも、兄弟弟子の繋がりで教えて頂いたこともたくさんあります。三年みっちりと過ごしました。
もう一点言うと、家に戻るタイミングで学生時代からお付き合いしてた方と結婚するんです。妻とはずっと「世界一周旅行をしたい」と言う話もしていたんですね。
丹波という土地の中では、美大に行って弟子入り経験もあるのは珍しい存在ですけど、そこでさらに視野を広げるために世界一周旅行をしていろんな工芸をみたいな、と考えていました。たまたま兄弟子がそういう経験をしていたのでいろんな情報も身近にあったんです。弟子入りが終わった後、計画を立てて数ヶ月かけて妻と陶芸や工芸の産地を選んで世界一周に行ってきました。
インドの屋台で、素焼きの盃でチャイを飲み干してその場で割ってしまうのを目の当たりにして、「焼き物にこんなスタイルがあるのか」という衝撃があったり、東南アジアでのものづくりに驚いたり。モロッコのタイル作りとかも色々見せてもらいましたね。イタリアの陶芸家のところを見学したり。
そうですね。これで本格的に丹波に両足突っ込んでやるぞ、と言う形です。
僕の陶芸は学生時代に触れたアート系が入り口になっています。大学ではどんな材料を使ってどんなテクニックで表現しようがなんでもありのところからスタート。鈴木五郎先生は美濃で制作されているからこそ、美濃焼らしいことをご自身の中で表現されている。
僕も丹波でやるとなった以上、丹波の素材と技術で作ることができる丹波らしいもので、それまでにインプットしたことを表現できたらいいな、と思ったんです。何をしてもOKではないんですね。丹波の伝統的な技法を勉強すると、イッチンだったり墨流しだったり、鎬があったりとか、丹波発祥のものに限らず民芸の技法が色々と受け継がれているんです。その中で鎬のリズムが僕にはハマったんです。あれこれ考えながら鎬をやる中で、斜めに削ったり色々試していたんですけど、ふとした瞬間に一度削ったパーツをもう一度象嵌する、ということをたまたま閃いて始めました。
白化粧をどぼっとかけちゃうとせっかく埋めたところが目立たないので、際立たせるために黒い顔料を埋めて拭き取ってから白化粧をしたり、10年ほどこの技法を続ける中で白のニュアンスを変えたりしてます。和モダンというか、和室にも洋室にも合うような物を、というのは意識してますね。
陶芸家として最終的には薪の窯で勝負したいな、という気持ちもある中で、20代から30代後半にかけてやってきたのは主にテクニックの面でした。鎬象嵌とか細かい装飾の方です。将来的に年齢を重ねると細かいことはできなくなるかもしれないし、薪窯で勝負するのはそれからでも良いか、と思いつつ。それでも並行して薪窯もやってきて良い作品もどんどん溜まっていくんですね。焼き上がりが良くても「ちょっと今の自分っぽくないな」と感じて寝かせていたり、発表の機会を伺っていた作品たちにとっての、ここぞというタイミングを待っていました。
白白庵での二回目の個展のお話を頂いて、じゃあせっかくならこの機会じゃないかと。開催も一年延ばしてもらったんですけれども、その分新たに薪窯・焼締の作品も増やしました。
登り窯と窖窯を使い分けてます。登り窯は三基あって窖窯はひとつです。登り窯はそんなに大きいのではないですけど、穴窯は大きくて奥まで温度をあげるのが大変です。
丹波の登り窯は「蛇窯」とも呼ばれるのですが、分煙柱が基本的になくて、下から上までが長く繋がっているんです。一つでも多く甕や壺が入れられるようにしたと聞いたこともあるんですけど。外見は他の地域とそんなに変わらないですが背も低いですね。諸説ありますけれども、そういう作りだから「蛇」に例えられたのかもしれません。
「白丹波」とか「赤ドベ」はまさにど真ん中です。白化粧をして薪で焼けば「白丹波」になるんですけど。電気やガス窯で焼いたものと、薪で焼いたものを比べると全然違うんですね。DMの茶盌みたいなこういうしっとりした雰囲気は薪じゃないと出ないですね。
鎬象嵌のシリーズを薪で焼成したものもありますね。試しに薪で焼いてみたらすごく良くなりました。
弟子時代に鈴木五郎先生の呼継シリーズをお手伝いしていたんです。そこで僕は金継ぎとかの技術も学ばせてもらいました。
その経験も少しずつ自分の中で昇華できたり、SNSを見ていても世間ではSDGsのような持続可能性への意識も高まってきていて。だから先生からのアイディアというよりは、自然に「物を大事にしたい」という気持ちが湧いてきてやってみようと。
そしてガラスと陶器ってあまり無い組み合わせですし、日本酒を飲み終えたガラス瓶を捨てるくらいだったら砕いてパーツにしてみようと思いついたんです。このアールとあの部分は合うんじゃないか、と色々組み合わせてみて遊んでます。
陶器の方も自分の中では焼きが甘かったり、窯キズがあってSクラスとかAクラスではないものをピックアップしています。傷のあるところをカットして、ガラスを組み合わせていく。良いものと良いものを壊して良いものを作るのではなく、1.5軍と1.5軍を組み合わせて日本代表チームができたら良いな、と笑
そんな意識でやってます。
ある方に「ガラスも元を辿れば鉱物ですね」と指摘されました。違う道のりを辿って一つの物体になっているのは面白いですよね。飲む時に向こう側が透けて見えたら面白いよね、という発想が先ですけれど。
きっかけとなったのは毎年GWに丹波焼の青年部で開催している企画展で、そのテーマが「融合」でした。そこで僕は陶器とガラスだったり石と土との融合というテーマで取り組んだんです。「石を焼く」というのもかつて大学時代に実験したことがあり、さらには鈴木五郎先生も着眼して制作に取り入れていたことです。ことあるごとに僕の中でひっかかるんですね。それをもう一度やってみよう、と。先生のところから離れて十年以上経ったので近寄らないように、近寄るように、といいますか。長い時間が経ったことでどういう違いが出て、自分なりの表現にできるかも意識しています。
素焼きして釉薬をかけた器を石の上に置いて一緒に本焼をしています。その過程で倒れたりとかいろんなハプニングはあったんですけど。焼いて釉薬でくっついているんです。
何十万年もかけてこの石ができて、そこからまた何万年も経って苔とかいろんなものがくっついていたんでしょうけど、焼くことによってそれも飛んで石が裸の状態になっています。
そして鉄分が赤く発色したり、膨らんでヒビが出てきたりするんです。最初はヒビの一個もない石を選んだんですけど、むくむくっと内なるパワーが膨らんでくるんです。
そして自然の石と対極的なものとして、プラチナ彩の器と組み合わせました。
結果として「幽谷」、深い山奥に佇むような感じが出たかと思います。
世間の流れもあって最初は銀彩をやってたんですよ。ただ、銀彩だとどうしてもお酒の香りを邪魔していると感じてプラチナに切り替えたんです。
銀彩だとメンテナンスも必要になりますし、そうすると愛着を持ってくれる人ばかりではなくなります。プラチナ彩だと変化もないですし、アンティークじゃなくモダンを狙えます。
プラチナは全面に一種類だけ塗っているんですが、下地の違いでいろんな表情が出ています。下地となる釉薬を使い分けたり、地肌を残しておくことで、最終的に全面に三、四種類のテクスチャーが出てくるのが面白いですね。
今までの展覧会ではは電気窯やガス窯の作品が中心で、薪窯は一部だけでした。制作を続ける中でプラチナ彩と鎬象嵌が自分の中心になっていたんです。今年38歳になって、40代の仕事を見据えた時に薪窯のものをメインに据えたターニングポイントを作りたいと思ったんです。厳選した薪窯の作品を白白庵で発表したいという気持ちで揃えました。
会場でどう展示されるのかも楽しみですね。グループ展だといつも分かりやすく代名詞的なものとして鎬象嵌とプラチナ彩で、となってしまいますけども今回は個展です。ひとつの会場で色々な幅を出してみることで「大上裕樹」という作家がどう見えてくるかな、というのは自分自身でも楽しみでもあります。