白白庵企画『三代目安洞茶道具店』 / 安洞雅彦インタビュー
岐阜の多治見で制作している安洞です。織部を制作するために美濃に来て、もう15年以上経ちますね。
今回の展覧会タイトルにも繋がる話になりますけれども、うちは祖父の代から古美術商をしてまして、父が二代目。本来は僕が三代目だったわけですけれども後を継がなかったんです。さらに言えば父の兄が陶芸作家で、父の弟がお茶専門の籠師、叔母が仕覆などを作る袋師だったんです。なので子どもの頃から常にお茶道具が身近な存在だったんですね。
父は京都の道具屋さんで修行しまして、そこで高原杓庵さんというお茶人に大変可愛がられたそうです。茶杓の研究で有名な方です。看板になっている「安洞」の字はこの方に書いて頂いて、父の代から「安藤」を「安洞」の字に変えたんです。僕は三代目を継がずに陶芸作家になりましたけれども、家の看板を守ることもかねて作家名を「安洞」としています。
ちなみに両親の出会いも、父の修行先の古美術商で母も働いていて、そこで出会ったらしいんですよ。それで僕が生まれた。
でも茶道具屋は継ぎたくなかったんですよ。父が亡くなったのは15年くらい前ですけれども、その随分前からお茶道具が売れなくて大変なのも見ていましたし。ジャズギターをしていたのでそちらの道に進もうとするんですけど、その一方で焼き物もなんとなく始めて。道具屋を継ぎたくないがためにですね。焼き物を作り始めるとその難しさもわかってきまして、子どもの頃は興味はなかったですけれども、家には色々と古い道具もあってそれを見て育ってますし、なかなか難しいなと思いながら面白くなってのめり込むんですね。
その頃に窯業の専門学校も受験したんですけど落ちまして。それで一人でやり始めたんです。簡単な轆轤の引き方とか土の練り方は陶芸教室に通って教えてもらって。あとは独学です。
独学です。人に聞いたりとかですね。元々僕はものを集めるのが好きで、古書店にはよく行ってたんですよ。大学時代もレコードマップと古書マップを持っていろんなところを回って、色々買い集めてたんです。例えば加藤唐九郎の本を買って『焼き物はこうでなきゃダメなんじゃ』とか書いてあるようなのを読みながらですね、見よう見まねで始めたんですよ。
すると父親も「焼き物をやるんだったら」ということで美濃物に強い古美術商を紹介してくれたんです。作品が焼けたらワンシーズンに一回くらいそこに持っていく。
持っていくと「ここがだめだ」とか「あれが違うけどここはいい」とかそういう風に色々教えてくださるんです。そして最後に本歌を見させてもらうんですよ。そういう風なことを5年くらい繰り返しているうちに、美濃物の見どころとか、良いものと悪いものの違いを学んだと思います。
仮に学校に行ってたら多分、造形論とかそういうのが中心になって古典的なものはあまり勉強できなかったかもしれない。そう思うとこれで良かったのかもな、と思います。
でもこれは30〜40年前の陶芸家がみんなやってたことですよね。今はそんなことをやってる人はほとんどいません。
結婚をきっかけに多治見に引っ越してきましたけれども、そういう古典を徹底的に追求する化け物みたいな人がうじゃうじゃいるのかな、と思ってたら意外とそうでもなかったんです。古典中心の作家はだいぶ上の世代にはいらっしゃるんですけれども、同世代にはほとんどいなかったんです。
要はみんなストライクゾーンギリギリを狙ってるんですね。意外とど真ん中がガラ空きなんですよ。なので僕は球速も早くないし変化球もないけれども、ど真ん中をしっかり狙って投げ続けてます。徹底的に古典的なことをですね。
そうした揺るがないところを狙っていくために、僕は陶片も集めてます。展覧会が終わると売上の一部で資料として陶片を買う。それを10年以上続けてます。人それぞれだとは思うんですけど、古典的なことをやるのに陶片一つ持っていないのではやっぱり説得力に欠けると思うんですよ。だから徹底的に、あらゆる手段を使って陶片を集めて・・・
古美術商とか正規のルートですよ笑 拾っちゃダメですからね。とは言っても今は窯跡に行っても大した陶片は落ちていませんけど。しっかり掘れば多少出てくると噂です。こういうお話はお茶会の時にでも。
ということで、陶片を眺めると断面から得られる情報もありますし、とにかく色々集めてます。陶芸家って骨董好きな人が意外に少ないんですよね。
今回のお茶会では状態の良い、SNSには絶対に上げないもので道具を揃えてます。
いつかこういうことがあるだろうと思っていたんです。5年後10年後にはきっと何かあるだろうと期待して、ちょっと無理してでも買い集めてました。
古田織部四百年忌で2015年は盛り上がるだろう、ということを2011年くらいから予想して、その頃に豆向付を作り始めたんですね。サブタイトルで「古田織部四百年紀に向けて」とつけてたんですけど、周りはみんな「安洞くん何言っとるの」って感じで笑
でもセラミックパークMINOや佐川美術館でも大きな展覧会があってちゃんと盛り上がりましたね。山師じゃないですけどそうやってちゃんと先を読んで、今回こういう仕事をしたら将来的にこう繋がるかな、と考えて行動はしてるんですね。まぁ当たらないこともかなりたくさんありましたけれども。
今後の展望としては今、美濃物のコレクターや業者さんとも仲が良いし、古美術関係の方に向けての仕事もしたいとも考えてますね。去年は多治見のとうしん美術館で講演会をしましたし、今年の秋は東京で古美術愛好家の会で集まりがあって、そこで僕も作り手としての目線で美濃物についての講演をしようとか。古美術商の世界ではあまり作り手の目線が浸透していませんし、陶芸作家があまりしないことも意識的にやっていくつもりです。
客観的に僕なんかは人気作家ではないし、アントニオ猪木にはなれなくても木戸修みたいにね。ひたすら関節技で勝負していくような。こんなオールドスタイルではありますけど、ピンポイントで特化していこうと思いますね。
美濃という地域は真似が上手いんですよ。歴史的にどこの地域の焼き物も作ってしまうんです。京都を中心とした茶ノ湯界隈で伊賀が流行れば「美濃伊賀」を、唐津が流行れば唐津っぽいものを作ったりする訳ですね。
歴史的にいえば、安土桃山の時代に美濃地方・妻木の殿様の娘が唐津の藩主・寺沢広高のところに嫁いでるんですよ。そこで美濃と唐津の交流が始まるんですね。この妻木城の横に作った御前窯という小さな登窯が美濃で最初の登窯と言われています。有名な元屋敷窯の前ですね。そこで焼かれていた製品では唐津によく似た赤土を使ったものがあるんです。現存するものは少ないんですけれども、京都界隈で唐津が流行ってたから真似してたんでしょうね。
この数年、仕事の関係で唐津に行く機会が何度かあったんです。それで土を掘りに行ったり、窯を手伝ってみたりして、せっかくご縁もできたから唐津を作ってみよう、と。
ちょうどそのころに白白庵個展の話も頂いたんです。じゃあ、せっかくなのでいろんな唐津の種類とか、美濃との関係性とかも見えるように、と作り出したんです。
ただ結論から言うと、唐津の方はあまり美濃の影響を受けてないな、って思います。結構あるんじゃないか、って思ってたんですけど美濃の影響は一割もないですね。やっぱり朝鮮ルーツなんですね。轆轤も全然違うし。美濃の作り方じゃない。
今回の僕の裏テーマは、「400年前の美濃の陶工が唐津に行ったら何を作るか?」なんです。なので茶盌でも一部織部様式の、美濃の陶工が作ったような技法でやってます。でも唐津の土は焼くととにかく歪むんです。美濃で使われるたたらの技術は唐津にはあまりないんですね。全部轆轤でやっちゃう。それは土の性質もあるんだと思いますけど、たたらで作ると歪んでしまうんですね。轆轤で作っても焼くとちょっとへたるから高台周りが肉厚になったりするんです。やってみるとそういう違いもあって面白いですね。
今回の出展作品では「青唐津山盃」だけは唐津で焼いてます。あとは全部美濃で焼いたから「美濃唐津」としています。土はどちらも唐津の土です。
本当に土が全然違って探り探りですけど、僕は全部そんな風に独学でやってますので結果的にそれが個性となり武器にもなっています。
志野は大きく分けると二種類あります。荒川豊蔵さんがいたところ、いわゆる大萱ですね。「牟田洞系」と僕は勝手に呼んでますけども。もう一つは元屋敷窯。連房式の登窯があるところなんですけど、そこには元屋敷東窯という大窯が三つあって志野を焼いてるんですね。
こちらを僕は「久尻系」と呼んでいます。
牟田洞系は国宝の『卯花墻』とかみたいに、火色が出て、ちょっとぼてっとした釉調。茶陶が多いですね。
久尻系は釉薬が透明に近くて絵柄がはっきり出ています。火色もあまりなくて食器が多い。多分棲み分けをしてたんと思うんです。骨董界隈ではいわゆる「ええ志野」というのは牟田洞系ですけどね。ただ色々考えて行くと、当時の陶工とか世間の正解は久尻系だったのかもしれない。絵がはっきりしていて楽しかったり、「ええね」、って思われてたのはこっちかもしれないんです。
なので今回、志野の食器の方は透明感のある、元屋敷東窯1号C窯くらいの感じを狙ってやりました。連坊式登窯に移行する直前ですね。織部焼と一緒に焼かれていた窯もあります。移行直前の大窯製品を目指してます。
それでいて茶碗とぐい呑の方は久尻系を狙ってやっています。ピンホールがあって火色もあってのいいとこ取りをしようと。
鼠志野はどちらの窯でも焼かれてますね。白い土に鉄化粧をして、絵柄を掻き落としてから釉薬をかけるという手間のかかるやり方です。李朝の粉青沙器とか、中国の磁州窯とかに通じる技法ですよね。
織部をやるために美濃にいる僕ですけれども、あえて今回は絞ってます。総織部は釉薬のムラムラ感が大事なんですよ。その方がマニアはよりときめくポイントです。織部焼は約束事が多いんですが、その中の一つですね。普通にパッとかけて焼くとペタってなっちゃって面白くないんですね。
御深井がね、ややこしいんですよ。
元々、御深井というのは名古屋城にあった御深井窯で作られていたものです。そこでは尾張徳川家の持ち物を写して、贈答用のノベルティ的な製品を作っていたんです。御深井印が押してあり家来などにあげるものには「賞賜」印がさらに押してある。そこで作られていた灰釉を御深井釉と呼んで、瀬戸で御深井焼が成立していったんです。
美濃の御深井は本来それとは別系統の灰釉の焼き物なんですね。
発掘調査の時に灰釉のものが美濃でもいっぱい出てきて、瀬戸の御深井と一緒にされ、それが通ってしまった。それが不幸の始まりです。
歴史的に考えると多分美濃の方が作ってた時期は早いと思うんですね。今はそれが御深井で通っちゃってるので、僕はあえて「美濃御深井」と言う名前にしているんです。
厳密に言うと御深井ではない、御深井によく似た美濃の灰釉の焼き物を元に制作してます。
だから僕は骨董仲間の陶片コレクターと何年も前からインスタで「#美濃御深井」キャンペーンをずっと張ってきたんですよ。
最近はヤフオクでも「美濃御深井」が出回るようになってきました。ついに一部では認知されてきたんですよ、「美濃御深井」が。そんなことばっかりこそこそとやってます。
そういう細かいところを、プロレスで言ったらアキレス腱固めみたいなことばかりやってますけれども、皆さんに楽しんでいただければ嬉しいですね。
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