怖くて仕方ない

夫曰く、私は体のことで何か不安があるとものすごく悩んで思いつめるそうだ。
なのに病院の先生方といろいろと話をして自分の中でなんらか消化、一旦「よし、決めた」となったら、「後は野となれ山となれ」の勢いで、びっくりするくらい腹を括って治療に向き合う…らしい。

夫は私を高く評価してくれている。

それはとてもありがたいけど、みんなそんなものだろうし、何より実際のところ私はすごく怖がりで、よわよわ人間だ。

前回の記事で、私は亡くなった人たちに「お疲れさま」と言いたいと書いた。
それは間違いなく本心で、揺らぐことはない。
でも、いざ自分が「言われる立場になる」、つまり死んでしまうことを考えると…とてもとても、怖いのだ。

心の内側を人と比較することは難しいが、この得体の知れない恐怖心は少し過剰なのではないかと感じている。

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「お父さん、人は死んじゃったらどうなるの?」

こう父に質問したのは小学1年生か2年生の頃だったと思う。
眠る前だった。
なんとなく母に聞いてはいけない気がして、母のいないとき、私の横で寝ている父に聞いた。

「うーん…お父さんもまだわからない。どうなるんかなぁ」

父の返事はこんな感じで、私の問いに対する明確な答えはもらえなかった。
…大人になって思う、あれは父としても超難問だったろう。ごめんやで父。

なぜあんな質問をしたのかはわからない。
ただ私は幼い頃から「人の死」について興味があった。
私の祖父は父方・母方ともに私が生まれる前に他界しており、幼くしてそのような親戚の葬儀に参列した覚えはない。だから死を近くに感じる機会はなかったはずだ。
それでもとても、人の死に興味があった。

結局父からはきちんとした答えをもらえず、私は「わからないんだ」と思って、でもその「わからないこと」に対する怖さを覚えた。

それは年齢が上がって行っても同じだった。

私が子ども時代、『あなたの知らない世界』という番組が流行った。
これはいろんな人の心霊体験を再現ドラマにして紹介、なんか偉い(らしい)霊能力者といわれる人が解説をしている番組だった。
この番組内だったかどうかは忘れたけれど、心霊写真もめちゃくちゃ流行っていて、そういう写真がどんどん紹介されていた。

私はあれがどうも苦手だった。
怖くて見ることができなかった。

ホラー映画などは同じように苦手には違いないのだけれど、面白いと感じるものもある。
おっかなびっくりでも好奇心が勝って見ることもあった(大人になってから見た『リング』は超怖くて、しばらく電話が鳴るとビビっていた)。
でもそれはフィクションだからだ。

心霊体験や心霊写真は実在の人が体験したことで、実在していたと思われる人たち(故人)が関わった出来事だ。
私はその、死んでしまった人たちが「怖い存在・怖がられる存在」になっていることが怖かった。
死んでしまった人たちがどうなるのか本当は誰にもわからないのに、怖がる対象になるのが不安だった。

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私には霊感というものはなく、当然のことながら心霊体験もない。
「三途の川を渡りかけた」という経験談を話してくれる人はいたものの(きれいな川らしい)、私自身にそう言った経験はない。

ただ11歳の頃、薬剤によるアナフィラキシーショックを起こしたときのこと。

私は呼びかけに返事をしているつもりなのに周囲にいた人たちには声が届いていなかった。
現実の私はそのとき意識を失っていたらしいが、私の中では意識を失っていた実感がなかった。

その体験で私は、実際の意識の有無がどうとかではなく、「意識を手放すと周りと会話もできなくて、私が私ではなくなるのだ」、そのように感じた。
そして私には「意識を失うこと」に対しての強烈な抵抗感と、ぼんやりとした恐怖心が生まれた。

ということで、私はいまだに「意識を失うこと」に対する抵抗感が強い。

いろんな処置の都合上鎮静をかけて眠らされることがあるのだが、それは可能な限り避けたい。
眠ることが怖いのだ。
例えばとある検査中、だんだんと苦しくなって来て「寝る?」と主治医に言われても
「…まだなんとか行けるからいらない…」
などと強がり、
やっぱり苦しくて耐えられなくてシクシク泣いて最終的に眠らされるような、「それなら声をかけてもらった段階で素直に寝ろよ」って事態を招いたりする。

とにかく意識を手放すことが怖い。

心房粗動や細動を止めるには私の場合DC(直流除細動器)が必須だが、このとき鎮静をかけられるのも本当は怖い。
にこにこ「寝てる間にすぐ終わるよ」と言うハンサム主治医を恨めしい気持ちで見つめながら、眠る一瞬前に「どうぞきちんと目覚めますように」と願って意識を手放す。
まあDCの場合は、事前に「もしかしたらツルッと心停止してそのままになっちゃうこともあるけどわかってるよ大丈夫!」という同意書にサインするから、なおのことそう感じるのかもしれないのだけれど。

呼びかけられて意識が戻ると、
「…私はどのくらい寝てましたか?」
と必ず確認する。

「5分くらいよ」
とそばにいた看護師さんに言われると安心して、「おかえり自分」と思う。


どうしても全身麻酔が必要なときもやはり、眠る一瞬前に
「これが最後になりませんように」と願うのだ。

目覚めた後は体が痛かったり怠かったり苦しいのだけど、それよりも何よりも「目が覚めた」ことが嬉しい。

いろんな検査や処置は眠る方が楽だよねという人が多い中、私のこの眠りたくない気持ちは、少し異様かもしれない。

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私は、死ぬのが怖い。
それはもう、怖くて怖くて仕方がない。

「死ぬことは怖くない」
という人を見かけると、本当に本当に尊敬する。
どうすればそんなに強くなれるのだろう。
(希死念慮や自殺願望のある人たちはまた少し心模様が複雑だと思うので、そういう人たちのことは含まない。純粋に「私、もういつ死んでも平気」と言える人のことを指している)

どのくらい前からだろう。
私は年に数回「死んじゃったらどうしよう」と言う考えに捉われることがある。
それは大抵夜で寝る前で、自分で「あ、来る」とその思想が湧き立つのがわかる。
体の奥底から暗い暗い空間が湧いてきて、私を丸ごと飲み込む感じ。
慌ててテレビをつけたり本を読んでみたり、スマホで特に何を見るでもなく見たり。
誤魔化そうとしてそのまま落ち着くときもあるけど、間に合わないときのほうが多い。

そうなると目を閉じて眠ることが怖い。
意識を失ったその延長線上にある死が怖い。

自分が死んでしまって、夫や誰かの心の中に私が生きたとしても、私は私でなくなる。そのことが怖い。

たぶん私は、死ぬことそのものではなくて「死んでしまった後、自分が無になる」ことが怖いのだと思う。
「私が私でいた記憶」を、私自身が手放すことに恐怖を感じているのだろう。
私の大事な人のことを、大事な出来事を、全部手放して永遠の眠りにつくことがとてつもなく怖い。

でもこんな風に思えるのは私が長生きしていて、かつ今の人生がそう悪くないと感じているからだと思う。
自分の出会った人のことや「私であること」を失いたくないなんて、どんだけ周りや自分のこと好きやねん、である。
だからこれはある意味で幸せな怖さなのかもしれない。
けれどその恐怖心に飲み込まれるといてもたってもいられなくて…できることなら泣き喚いてしまいたいくらいだ。自分を律するのが難しい。

…なんだかとても暗い話になっている。
今回この自分の中にある暗い部分を書くことは、読んでくださる方の心もまた暗い気持ちにさせるのではないかと躊躇した。

でも書くことで自分の気持ちを整理してみたかった。
私のこの得体の知れない怖さは、本当に私だけのものなのだろうか。
こういう怖さについて人に話した(書いた)のは、夫以外初めてのことだ。

もちろん怖くなる頻度がもっともっと多くて、その考えから抜けられないくらいならば一度カウンセリングを受けた方が良いのだろうと思っている。
でもそこまでじゃない感じなんだよね。
いつもは「ケセラセラ~」と呑気にしてるんだけど、年に数回やってくる面白くないイベントみたいな感じというか。朝を迎えてしまえば落ち着くし。


これを読んでくださる皆さんはどうなんだろう。
文章の締めにするにはとんでもない質問と承知の上で聞いてみたい。

「私はめちゃくちゃ怖いんですけど、死ぬことは怖くないですか?」

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ぱきら
あまり本を読んで来なかった私、いただいたサポートで本を購入し、新しい世界の扉を開けたらと考えています。どうぞよろしくお願いします!