生まれた意味など知らない
突然ですが、これをご覧くださってるあなたは「自分が生まれた意味」なんて壮大なことを考えたことがあるでしょうか。
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私は、先天性心疾患(生まれたときから心臓病)です。
私のように先天性、あるいは途中から何らかの疾患や障害を持った人の多くが「なぜその疾患(障害)を持ったか」ということをアレコレ勝手に決めつけてくる「意味づけさん」と出くわします。
そんな意味づけさんにどんなことを言われるのか、書いてみたいと思います。
ちなみにここで取り上げることは「先天性心疾患」という生まれたときから心臓疾患のある私の経験や周囲の話を元にしています。
途中から疾患や障害を持った人とは微妙にニュアンスが違ってくる部分があるかと思います。ご了承ください。
あなたなら乗り越えられるから、その疾患(障害)を持って生まれた
最も多く言われていると思う、
「あなたなら乗り越えらえる」説。
うふふ、そうかな?
私なら乗り越えらえるのね!じゃあ頑張る!
きゅぴーん!(謎のやる気に満ちてる感じの効果音)
…ってなると本気で思っているのだろうかと、私はいつも不思議な気持ちになる。
正直、乗り越えるとか乗り越えないの問題ではないのだ。
先天性心疾患というものは、成長やそのときの心臓の状況に合わせながら外科的・内科的治療が必要だ。
幼い頃などは、もうなんとかかんとかバランスを取りながら、まずは大人になることを目指して進むしかない。
だからと言って大人になったからゴールではなく、そこからまた体調の安定のためにそのときそのときで治療が必要となる。
乗り越えられようが乗り越えられまいが、その人生が終わるまで進むしかない。ただそれだけのことだ。
(でも私にも楽しいこと嬉しいことはたくさんあるのよ〜。だからかわいそうって思わなくて良いよ)
それから…では、亡くなった子(人)たちは?
彼らは乗り越えられなかった子(人)たちだと言うのだろうか。
違う。
彼らだって、全力で生きたのだ。
全力で命を全うした子(人)たちのことを「乗り越える力がなかったんだね」なんて言う人がいたら、私のへなちょこな腕力でデコピンをしたい。 …全然効きそうにないけども。
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しかしこれ、言ってる側は励ましてつもりなので面倒くさい。
では聞きたい。
あなたはなんらか辛い出来事に身を置いているその最中に「私なら乗り越えられる。だから与えられたのだ」と思えるのだろうか。
もちろん、「私なら大丈夫」「私なら切り抜けられる」と気持ちを切り替えることで励みになることはあるだろうし、それはそれで大切だと思う。
でもそれをよく自分のことを知りもしない第三者から言われたら?
たとえ向こうが励ましているつもりでも、違和感を持ちませんか?
あなた(母親)に与えられた試練
この「乗り越えられる」については、もう一つの問題が出てくる。
先天性心疾患の場合、ここに保護者(特に母親)が絡んでくることが多い。
生まれた我が子に疾患(障害)があると知っていろんな思いを抱えている母たちに、世間はこういう言葉をかけてくる。
「この子がこんな状態なのは、あなたに与えられた試練なのよ」
「大丈夫、あなたなら乗り越えられるわ」
「頑張って育てるのよ」
と、何一つ参考にならなくて面白くもないことを言うのだ。
そして、言わせて欲しい。
私の存在は、試練なの?
なぜどうして、私が親に対する罰ゲームの要素を持って生まれる必要があるのか。
私には子がいないので何とも言えない部分もあるけれど…子どもを持つということは、その親たちにとってとんでもなく大きなイベントで、その先の人生はかなり変わってくると思う。
私は、心疾患を持ってこの世に誕生した自分の存在が、父母やきょうだいの人生を大きく狂わした要因だと感じている(責任を感じているとかではなく、客観的に見たとしても)。
なのに、私の存在そのものが試練?
そんなこと言われたら、やるせない。
そんなものにはなりたくなかった。
ごくごく一般的とされる赤ちゃんとして生まれたかった。
母に与える試練としてなんて、生まれてきたい子がいるだろうか。
母にとっても子にとっても、とても、残酷なことを言うのだなと思う。
選んだ、選ばれた
「意味づけ」には直接関係ないが、いろいろな意味づけにプラスされてこういう文句がついてくることもある。
「あなた(母親)はその子に選ばれたの」
選んでないし、選ばれてもいない。
時折「子どもは親を(が)選んで生まれてくる」といった考えをおっしゃる人がいて、まあ信じておられるなら反対はしないけれど、決して賛同はしない。
だって、じゃあ虐待されてひどい目にあった子は、そんな親を選んだのか。親から選ばれたのか。選んでない。選ばれていない。
良い意味でも悪い意味でも、親と子の関係になったのは、ただただご縁の問題だろうと私は考えている。
そして、「選ばれた」といえば聞こえが良い。
でもその実、疾患や障害を持って生まれたことはその子や親が「選択した」からであり、だから家族が面倒を見るのが当然の責務なのだと、家族間で解決することが正しいのだと促しているように感じるのは…私の考えすぎかしら。
疾患(障害)は神さまからの贈り物
私は、神さまや仏さまを信仰しておられる人たちをけなすつもりは毛頭ない。
信仰の自由があるのだもの、信じることで心が軽くなるならそれこそが宗教の大きな力だと思う。
それに私も大きな入院や手術をすると「神さまお願いします」と手を合わすのだから勝手なものだ。
だからその人たちが疾患(障害)は神さまからの贈り物で、ならば真摯に向き合おうと思われるなら、それはプラスに働くのだと思っている。
では、私は。
申し訳ありません、いりません、神さま。
贈り物(疾患)はお返します、神さま。
今の自分が嫌いとか、自分を否定するつもりは全くないのですが、なるべくならやっぱり元気いっぱいで生きていたいんです私。
そしてできることならもっと、心躍る贈り物をいただきたい。
(でも心躍る贈り物ってなんだろうね)
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そうそう、神さまの流れで付け加えたいことがある。
人さまの子(病児・障害児)に対して「この子は天使なんですね」というのも、私は変だと感じている。
もちろん、家族や保護者がそう思われる分には問題ない。
特にお母さんから見れば(一般的には)子どもは皆天使で愛おしい存在に違いないだろう。
でも人さまに「あなたの子は天使なのよ」と言われるのは、私個人的には超気持ち悪い。
どうして目の前にいる「私(子)」を見てはくれないのだろう。
私はあなたと同じ人間だ…心臓疾患があると言うだけで、同じ人間なのだ。
なぜ見たことも触れたこともない「天使」なんてものに置き換える必要があるのだろう。
私には性格があり、きっと嫌なところがあり、そして楽しい部分もあるただの人間なのに。
過去には私にも天使疑惑があったらしいけどごめん、天使じゃなかった。
天使はたぶん、大人になったからと言って「今月の電気代が高い…」とか、嘆いたりはしない。
前世の罪を、悔い改めるために生まれた
さて私は、どんなことをやらかしたのでしょう。
もう、前世まで言われちゃうと笑うしかない。
でもよく考えて欲しい。
その法則で行けば、疾患だ障害だのを持って生まれた人たちは全員前世が罪人だ。
生まれ変わってまで悔い改めねばならないなんて、これは超A級の犯罪者だ。きっと、口にするのもおぞましい行いをしたに違いない。
だとすると…世の中にはいろんな疾患や障害を持って生まれた人が結構たくさんおられる。
先天性心疾患なら100人に一人の確率で生まれる。
これ、全員超A級の罪人だとしたら、時代は個々で違うにしても…それにしても、どの時代もかなり治安が悪い。そんなことってある?
うん、だから私、犯罪者じゃないや。
悔い改めるためじゃなく、豊かな人生にするために生きますね!
命の尊さを周囲に教えるために生まれた
私の命は、私のものだ。
周囲に命の尊さを教えるためになんて、生まれてはいない。
もちろん、私の存在を通してなんらか「命の重みとは」みたいなものを感じてくれるなら素直に嬉しい。世の中にはこういう子(人)たちがいるのだとその人の中で当たり前になってくれたらありがたい。
けれど私は教材として生存しているわけじゃない。
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どこかで誰かのお子さんが亡くなったとしよう。
ご家族は悲しいのひとことでは片付けられないほど、悲しみの中にいるはずだ。
でもその悲しみの中で「あの子は私たちに命の尊さを教えてくれたんだね」という想いが湧き、それで気持ちが少しでも落ち着くならこれも一つの考え方だ。私は彼らの心安らぐ日が一日でも多くありますように、と願う。
けれども、それを他の人に「あの子は自分の役割を全うしたの。だから死を受け入れなさい」なんてこと言われたら。
あなたは「はいそうですね」と思えるだろうか。
生まれた意味は本人のもの
どうして皆、他人の命に「なんらかの意味」を求めるのだろう。
決めたがるのだろう。 意味づけするのだろう。
冗談ではない。
そんな暇があるなら、自分の生まれた意味をとことんまで追求しておけばいいじゃないか。
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ところで私は、誰かが「私は○○になるために生まれた」と思うことに対しては何の文句もない。
例えばなんらかのスポーツ選手が「このスポーツをするために生まれた」と、
学者さんが「この分野を研究するために生まれたんだ」と、
音楽を愛する人が「音楽をするために生きている」と、
おっしゃるとする。
全く異論はない。
そもそも彼らは、おそらく私などが想像できないくらいの努力をしているわけで、その過程で「○○のために生まれた」という考えに至ったのだと思う。
それは「結果的に」そうなったわけで、生まれ落ちた瞬間からその生まれた意味が「確定」しているわけではない、と考えている。
(こういうことを書くと、いやそれは運命だからうんぬんとおっしゃる方が出てきそうだけど、今は運命とやらはひとまず遠くに投げ飛ばしていただきたい、お願いだから)
一方で、今現在「自分の生まれた意味」を模索中の人もおられるだろう。
それについてやいやい言うつもりだって、ない。
けれどもそれは「当事者が」見つけるものであり、周囲の、なんならお前誰やねんレベルの人が決めつけるようなものではなくて、ちょっと本気と書いてマジで引っ込んでろ…という気持ちになる。
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体調が良くなくて、本当に苦しいとき
「これほどしんどいのに…私って何なんだろう。何のために生まれたんだろう」と思って泣く…そういう人は多くいると思っている。
私にも似たような経験はある。
それでも私に答えは出ない。
結局私は、私が生まれた意味なんて知らない。
生まれた意味が「わからない」、これが私の答えだ。
だから私はただ、目の前の日々を積み重ねるだけだ。
話せばわかったり、わからなかったり
ここまで読み進めて、あなたが「なんかいろいろ意味づけされて大変だなぁ」と思ってくださったら、私は少し嬉しいです。
でも同時に
「しかし超めんどくせぇな、疾患のあるヤツって」
とも、思いませんでしたか?
「何か言ったら傷つくんじゃないか」そう思って、それなら疾患や障害を持つ人と会話しなければ良いや、という発想になるかもしれません。
でも、敬遠しないでぜひ、ごく当たり前に会話してみてください。
私ね、人はやっぱりどんなに想像しても、他の人の心まではわからない生き物だと思うんです。
会話をして、そこで相手の考えを知ったり学んだり。
それが人間にできる素敵な技だとも考えています。
だから話してください。
その中で、疾患や障害を持った人のことを知って行って欲しい。
ていうか、目の前の「その人」を知って欲しい。
疾患や障害があろうがなかろうが嫌なヤツはいるし、素敵な人もいる。
何か特別な使命を持って生まれて来てなくとも、たぶんあなたと差異はない。
話をして、わかったり、わからなかったり。
その上で「お前は乗り越えらえるヤツだから」と思われるならそれはそれ。
それを目の前の相手に伝えるかどうかはわからないし、伝えたら相手がどう思うかもわからない。
でもそこにあるのは、「よく状況を知らない他人と疾患持ち」ではなくて、「あなたと私」の関係。
いろんな「意味づけさん」に出会った私は、あなたが、先入観なくいろんな人と会話してくれることを望んでいます。