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共通点は「車いすを使うこと」の、先輩と私の話

通学生の高校に通い始めた頃、3年生の中に下半身付随と思われるの車いすを使った女の先輩がいた。

私は1年。
先天性心疾患(生まれたときから心臓病)でたくさん歩くと苦しくなるので教室移動のときなどに車いすを使っていた。

一つの高校の中に車いすユーザーが2人いることになる。

それでも、先輩と私は根本的に違う。
先輩は学校にいる間ずっと車いすを使う。
私は歩くのが大変なときに車いすを使う。

先輩は自分で車いすを漕ぐ。
私は自分で車いすは漕げないから、誰かに押してもらう。

私は心疾患で運動すること自体が体に負担となることが多い。
車いすのハンドリム(車いすのタイヤの外側にあるリング)を漕ぐにはそれなりに腕力が必要となる。体を動かすことは酸素を使うことであり、自分で車いすを漕ぐと体力を消耗するので漕ぐことはできない。
正直なところ、その体力があるなら歩きたいと思う。

たとえ同じ高校に通っているとしても、車いすを使う、そのこと以外は全くの違う2人の人間だ。

頑張ったらなんとかなる?

いつだったか、高校の中でとある先生(生徒からの評判は悪かった)に言われたことがあった。

「○○さん(先輩の名前)は辛いリハビリを頑張ってあそこまで回復したから、君も頑張れば元気に歩けるようになるかもしれないね!」

……は?

である。

それを聞いた私、なんか適当に乾いた笑いで誤魔化した気がする。

その先生の言葉に対しては、悲しいとか怒りとかではなく、

ああ、この先生の中では先輩と私は一括りなんだなぁ。
共通点は車いす利用だけという、ものすごくザックリした一括りではあるけれど。
さすが評判悪いだけあって、学校の先生なのに抜けてるなぁ。

…と言った感じの感想だった。

障害や疾患の内容によっては、リハビリを繰り返すことで(失われた機能を)本来の機能に近い動きができるようになるまで回復させることはあるだろう。
頑張れば頑張るだけ、努力すれば努力するだけ、目に見えて成果が出ることだってある。
でもそれを丸ごと、心疾患の私に当てはめるのは少し乱暴だ。

心疾患でもリハビリを必要とするときはある。
例えば長期入院をしていてあまり体を動かさなければ筋肉が萎えてしまう。
あるいは手術を受けたあと、痛みがあるからとじっとしている時間が長くなるとこれまたどんどんと体力が落ちていく。
こうした筋力や体力を維持するためにもリハビリが取り入れられることはある。
けれどもその多くは患者一人一人に合わせたもので、私の場合で言えばかかとの上下運動などを中心とした易しいものが中心となる。
「失われた機能を回復させる」というよりは、
「今ある機能をこれ以上低下させない」という、現状維持を目指すような代物だ。

だから、先生の言うように私が頑張ればもっと歩けるようになるのか、その答えはNo.だ。
むしろ無理して歩きすぎないように、頑張りすぎないように、体力を残すために車いすを使っている側面もある。

そのあたりの違いというか、個々人の背景を見ずに「同じ車いすだから」とまとめて考えるのはやめて欲しいなと思う。
これ、先生としては最大限励ましているつもりなのだろうから余計に厄介だ。

先輩という人

先輩が努力しているのだろうことは言われなくてもわかっていた。
あの時代、車いすで普通高校に通学するのは容易ではなかったろう。
車いす専用のトイレがあるわけでもないし、エレベーターがあるわけでもない。

階の移動には学校の端っこにある業務用エレベーターを毎回使っていたそうだ。
私のように男性の先生におぶってもらうのも年頃の女性としてはなかなか辛いものがあった(私はやせ型ではあったものの、それでも先生方の腰に負担がかかることは間違いなく、基本的に男性教諭におぶってもらうということになっていた)。
でも先輩のようにいちいち遠くまで移動してエレベーターに乗り、また教室目指して移動するという、休み時間が教室移動で終わってしまいそうな状態もなかなか大変だったと思う。

先輩は中学の部活が何か、とにかくスポーツをしているときに怪我をして、以来車いすを使わねばならなくなったらしい。
リハビリをたくさんして起き上がれるようになり車いすを使いこなすようになった彼女、でも下半身の感覚はないので、時間を決めてトイレに行っていたそうだ。
トイレ介助だけは必要で、特に生理のときは大変だとか。

…と、これを、私が知っていることに怖さを感じませんか?
めちゃくちゃ個人情報ですやん。

これは入学にあたり「わが校にはぱきらさん以外にも車いすの生徒がおりますから」とかなんとかで母が聞いてきたのを更に聞いたのだ。

おそらく私のことも、先輩は何らか聞いていただろう。

知ってもらって、知られてしまう

少し脱線する。

なんというか、個人的に私は疾患や障害のある人のプライバシーは、一般的な人と比べるとあまりないように感じている。

それは例えば学校という小さな社会の中で、こちらの情報を先生たちの共通認識として理解してもらう必要があるからだ。
そして伝えるのは限られた人数だとしても、情報を得た人の口に戸は立てられないので徐々に拡がる。

先ほどの母に先輩情報を伝えた先生は、おそらく「うちには車いすの生徒がすでにおりますしこういう対応ですからご心配なく」的な、私の母を安心させるために言ったものだったろう。そこに悪気はない。
だけど母から聞いた私がまた誰かに話す→その誰かが話す→とんでもなく拡がる、という怖さが抜け落ちているように思う(私はもちろん、誰にも話さなかったけど)。

今は個人情報保護法があるからあの頃よりは慎重にはなっていることだろう。とはいえやはり、他の人に比べるとプライバシーはないという考えは消えていない。

まあ、それが必ずしも悪いことだとは思っていない。

自分の生活圏で安全に暮らすためには、その地域で生きる人たちにある程度こちらのことを知っておいてもらう方が良い。
「車いすを使うみたいだけど歩くこともあるみたい。なぜかしら」
という疑問のままの人がご近所さんにいるならば、
「いえ私は心疾患なもので…」
と伝えればなるほどそういうことかと思ってもらえるし、その後は気にかけてくれるようになったりもする。

少しおしゃべりが好きな人に伝えれば、あとは自然と拡がる。
いちいち1人ずつに説明する必要がなくなるから、噂話も時には役立つ(間違って伝わることもあるから油断は禁物だけれど)。

疾患や障害の内容なんてものは個人情報の極みだと思うが、この個人情報をどこまで知っておいてもらうか、これはとても難しいけれど社会で生き抜くためには大切なことだとも思っている。

ちなみに今私は夫と2人暮らしのマンション住まいだ。
引っ越した際に挨拶に行ったお宅はあったものの、マンション内に知り合いと呼べる人や友人は一人もいない。
ピンクのケースに入った酸素ボンベをコロコロしてる40代、救急車を呼んだこともあるし、夫が車いすを車から積み下ろししている姿もそれなりに見られてはいる。
私(というか私たち夫婦)を不思議な気持ちで見ている人もきっとおられるだろうが、でもわざわざ話しかけてくる人はいないし、私たちがわざわざ言いに行くこともない。
少し寂しい気はするけれど、子ども同士の交流でもなければそんなものだろう。

新しい生活圏でその地域の人に「知ってもらう」ことは、大人になればなるほど難しいように感じている。

ただ、私には患者会を通じて県内に見知った人がたくさんいる。
だからさほど不安はない。
県を跨いで引っ越してきた私にとってここは未開の地だった。
そこで孤立していない、これがどれほど心強いことか…そう感じている。

先輩と後輩、それだけの私たち

で。
おそらくお互いの個人情報が筒抜けであったろう先輩と私は言葉を交わすこともなかった。

そりゃ廊下ですれ違えば会釈はするが、それは後輩が先輩にする挨拶であって、深い意味などない。

だから先輩と私は、本当にただの先輩と後輩だっただけだ。

先述した評判の悪い先生は、もしかしたら先輩と私を仲良くさせたかったのかもしれないなと思っている。
同じ車いすを使う者同士、分かり合えることもあるだろう…といったところか。

もしかしたら仲良くなれたかもしれない。
でもそれは入り口が「お互い車いすを使う人」であっただけで、その向こうにある個人の人となりを好ましく思った場合だろう。
でもそもそも学年の違う先輩と話す機会なんてなくて、だから仲良くなりようがなかった。

一方車いすユーザーとして分かり合えたかと言えば…おそらく、先輩と私とで分かり合うことは難しかったのではないかと思う。

もしかしたら先輩の中では私に対して「歩けるくせに」という感情があったかもしれないし、
私は私で車いすを使っているとしても自由に友だちと動き回れる先輩を「羨ましい」と感じていたところがあった。
大人になればそれぞれ割り切れることだとしても、若い私たちにはそれができなかったのではないか、そう考えている。

だから私たちはただ車いすを使っている、それだけが共通していたのだ。

カテゴリーの中の私と、目の前の私

車いすを使う、
先天性心疾患である、
〇〇障害者である、
きょうだい児である、
女性(男性)である、
LGBTである、
子ども(大人)である、
働いている、働いていない、
自営業である、会社員である、
その他もろもろ……

いろんなことをある程度のカテゴリー(私は「範疇」という意味合いで使っている)に分けることは必要なことだ。

例えば「車いすを使う人」は世の中にはたくさんいて、そういう人たちに配慮しなければならない。これは社会の認識として広く伝わっているだろう。
それは車いすを使う人という存在がみんなの中に根付いたからだ。

ただ一方で、車いすユーザーをすべて「車いすを使う人」という括りにしてしまうのは現実的ではない。

車いすの人にとって出入り口には階段だけでなくスロープを設置しておく方が良い。
これはその通りで「車いすを使う人全般」に当てはまることだ。

けれどもその車いすを使う人にはそれぞれ差があり、車いすを押してもらう人にとってはさほど問題のない「少しきつい勾配」のスロープであったとしても、自分で車いすを漕ぐ人にとっては腕力勝負みたいな体力を消耗するきつい勾配のスロープかもしれないし、電動車いすの人にとっては車いすごとひっくり返りそうなハラハラした勾配の、あっても使えないスロープかもしれない。

それはそれぞれの意見を聞いて初めてわかることで、単純に「車いすを使う人」だけの視点で考えると見落としてしまう。
相手を理解すると言うのは、とてつもなく難しいことだ。

私は「先天性心疾患がどのような病気であるか」そのことを多くの人に知ってもらいたいと思っている。

先天性心疾患は見た目は元気そうでも疾患(障害)を持つ内部障害者です。
手術をすれば治るというものではありません。
昨日できてたことが今日できなくてもそれは怠けているのではなくて、本当にしんどいのです。
…などなど。

それらを知ってもらうことで、私を含む先天性心疾患の人たちがもっと生きやすい社会になれば良いなと思っている。

一方で私は、一口に先天性心疾患と言っても一人ひとりは全くの別物で、だから先天性心疾患とはこうだ!と決めつけないで欲しいとも思っている。

私は先天性心疾患なので、先天性心疾患の人の辛さや悲しさみたいなものがわかる。
けれどそれは実際のところ「わかる気がする」だけで、相手と私の苦しさが一致することはあり得ない。
私たちは同じ「先天性心疾患」というカテゴリーに入っているだけで、状況も生活環境も、要するに生きてきた背景が違うからだ。

あるいは私に適していた治療だったからと言って同じような病名の人にその治療法が当てはまるかと言えばそうでもない。
だから私の治療法やこれまでの生きてきた道みたいなものを誰かに話をすることはあっても、それを押し付けることのないように努力している。
「わかったつもり」が一番怖い。

こういうことを文章に書いてしまうときつく聞こえるし、「わかる」と私に対して言いにくく感じるかもしれない。
でも私は「わかる」と言ってもらえるのが嬉しいし、共感してもらえるのがとても嬉しい。
だからこれからもじゃんじゃん「わかる」と言ってもらいたい。

みんなに優しい社会を創るというのは口で言うほど容易くはなくて、実はすごく難しいことだと思っている。

女性に優しい街づくりというものがあったとして、それが本当に全ての女性に優しいかどうかはわからない。
働く女性には優しいかもしれないが、働く妊婦さんには優しくないかもしれない。
そんなことの繰り返しだ。

でもそんなことを言い始めたら社会は成り立たなくて、だからやはりある程度のカテゴリーに分けることは必要だ。
女性に、子どもに、高齢者に、障害者に、LGBTに、外国の人に……。

必要なのは
「カテゴリーに分けることができる人たちであっても、同じ人など一人もいない」
と知っておくことだろう。

そしてそれは、私自身も肝に銘じておきたいと思っている。
同じ女性でも違うし、同じ心疾患でも違う、同じ年齢でも違う、同じ地域で暮らしていても違う。
何かが共通していたとしても、私と相手は確実に「違う」のだ。

だから私は、最終的にあなたには目の前にいる私個人を見て欲しいと思っているし、私は目の前にいるあなたを見たいと思っている。

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ぱきら
あまり本を読んで来なかった私、いただいたサポートで本を購入し、新しい世界の扉を開けたらと考えています。どうぞよろしくお願いします!