別人になれなかった話
Twitterを始めるとき、私は心疾患である私をちょっと忘れたかった。
この頃私は、Twitterを始めようと思うくらいの心のゆとりはあるものの、体調が落ち着いているとは言い難い毎日で、自分が心疾患であることにうんざりしていた。
別人になりたい
体のことを抜きに誰かと話をしたい。
この悶々とした気持ちをどこかで発散したかった。
どうせなら心疾患である私を知らない人と話がしてみたい。
何と言っても生まれてからずっと心疾患なのだ。
心疾患でない時期なんてなくて、それならいっそ心疾患であることを書かずに誰かと親しくなってみたい。
心疾患なんて私の中に最初からない、そんな状態で。
そんな風に思った。
☆
世の中では随分とTwitterというものが浸透しているらしい。
聞いたことはあるけれど、そこに触れたことはない。
炎上とやらがあるそうで、ちょっと怖い印象もある。
それでもインターネットの波に乗り、メル友だのホームページ作成だのBBSだのと通過してきた私。
知らない人と会話すること自体はそれほど抵抗がない。
ダメだなと思えば撤退すれば良い。やってみよう、そう思った。
そしてTwitterを開始。
Twitter上では自己紹介みたいなものを書く部分があるのだが、私は心疾患には一切触れずに「夫婦二人暮らしの主婦」としてアカウントを作成した。
昔触れたインターネットの世界では、いつも入り口に「心疾患」があった。
今回は違う。
体のこととかどうでもいい。
私と同じような夫婦二人で暮らしている人たちと知り合いになって、穏やかな話をしてみたかった。
別人になりたかった。
キラキラも、何もない
ところがこれがなかなかうまくいかない。
夫婦二人で暮らしている人たちというのは、その多くが共働きなのだと知った。予想はしていたものの、働いていない自分としてはどうにも肩身が狭い。
しかも、なんだかとてもお洒落。
登場するのは「〇〇で食べたディナー(夕食とは書かない)」とごちそうの写真だったり、お店できちんとやってもらったであろうネイルの写真、海外旅行先での話だったり。新しく買ったバッグとやらはブランド品。
そういう人が多いのだ。
……なんだ、この異次元のキラキラは。
誤解のないよう書いておくと、今現在Twitterで繋がっている「夫婦二人暮らし」の人たちがキラキラしていないなんて思っていない。
十分キラキラしているし、そのキラキラしているのを見て、わあ羨ましい!と感じることはもちろんある。
でもきちんと、生活の香りがするのだ。
悩みが見え隠れすることもあって、そっと見させてもらっている。
けれど異次元のキラキラ組は生活臭がしない。
これはあえてそういう風にしているのだろうか。
まあもちろん、どんな人であっても日々の中で喜怒哀楽はあるわけで、その心の内をTwitterの短い文章と写真から読み取れるわけではない。
だからキラキラが本当にキラキラしているかどうかはわからないし、それを鵜呑みにして傷つく必要なんてない。
でも、海外旅行の予定を書かれたものや蕎麦を食べるためだけに〇〇県へ弾丸で行ったという文言に、私は勝手に傷ついてしまった。
私にそんな体力ないもんな。私にそんな自由はないもんな。
どうしてこんなに違うんだろう。
夫婦二人で生きていることに違いはないのに。
そんな風にいじけた。
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では、と他の部分に目を向ける。
しかし、そもそも私にはこれと言った趣味がない。
かつ、ものすごくファンで推してる人がいるわけでもない。
びっくりするくらい、話に交じっていけない。
Twitterを始めて、私は自分がなんて浅い人間なんだろう…としみじみ感じてしまった。
ない。
ひとさまに誇れるものも、趣味も、自慢できるものも、推しも。
40歳を目前に大ショック。
「心疾患であること」が私のアイデンティティであることが明白になってしまった。
というか、心疾患であることを取り除いたとき、私は驚くほど何もない人間だと実感してしまった。
うう、書いてて悲しい。
先天性心疾患じゃない人たち
それでもあえて心疾患には触れずいろいろと見ていくと、夫婦二人で生活している重症筋無力症の人にたまたま遭遇した。
病気は違えど、なんとなく通ずるものがあった。
それに重症筋無力症という疾患を初めて知った。
私は先天性心疾患については多少の知識があるけれど、それ以外の知識は当然ながら持ち合わせていない。
心疾患以外の疾患、しかも同じように主婦として暮らしている人たち。惹きつけられたし、純粋に興味が湧いた。
とはいえ何がどれほど大変な病なのかを深く理解しているわけではない。
でもたとえば今日できていたことが明日うまくできないことがある、それを怠けているように思われるのが辛い…といった心持ちは通じるものがあった。
世の中にはたくさんの疾患や障害があることは理解している。
でも理解していることとそういう人と実際に接することは違う。
Twitterに書かれた言葉の多くは生の声だ。
対面して会話をしていなくても、Twitter上で話をしたことがなくても、つぶやきからその人の考えにじかに触れているかのような気がした。
そうして私は、他にも私がこれまで知らなかった難病や障害がある人たちを知った。
Twitterを始めて、私は自分には何もないことがわかってしまったけれど、一方で世の中にはいろんな(それは疾患や障害に限らず)ものごとがあることがわかった。
これだけでも儲けものではないか。
そう自分を納得させながら、そしてちょっとだけTwitterが楽しくなりながら、私はTwitterという海の中をもう少しゆらゆら泳いでみることにした。
☆
そうしてフォローしていく人が増えていくうちに、
「Twitterを開始して同じ疾患を持つ人に出会えて良かった」
というような文章をよく目にするようになった。
そうか、多くの人は自分一人で疾患や障害について悩んでいるんだな。
そう考えると私は本当に恵まれている。
リアルな世界で早くから先天性心疾患の知り合いや友人ができていたのだ。
ありがたいなと感じた。
でも不思議なもので、現実社会で繋がっているからこそその人相手に愚痴を、特に体に関することを言えないことだってある。
同じ心疾患であってもそれぞれに何かしら体調不良や悩みはあるわけで、自分のことだけを話すのは気が引けるのだ。
お互い持ちつ持たれつであったとしても、そこに遠慮は生まれる。
ここで私は気がついた。
そうか私、たぶん吐き出す場所が欲しかったんだな。
心疾患であることをないことにして別人になりたい。
でも同時に、心疾患であるいろいろな煩わしさを(ある意味無責任に)知らない人に聞いて欲しい。
どうやら私は、そんな相反する気持ちを持っていたらしい。
結局切り離せない
心疾患ではない「ぱきら」という人物を続けるのは難しい。
私は残念ながら心疾患を取り除いて生きて行くことが、ネット上でもできないようだ。
どうあっても心疾患はついて回るらしい。
切り離すことができない。
それに正直、心疾患である人とも気楽に会話してみたい。
…あーあ、別人にはなれなかったか。
それならそれで仕方ない。
夫との生活の話もお金の話も、体の話も。
会ったこともない人に、たまに聞いてもらえるアカウントにしよう。
そして私は、これまで検索してこなかった「先天性心疾患」を検索した。
するとたくさんの人がヒット。100人に1人の割合で生まれるのだ。そりゃいるよね。
ついでに「成人先天性心疾患」と入れてみる。
これも結構出てきた。
私は自己紹介文に「先天性心疾患」と入れてみた。
このひとことでフォロワーが増えるわけではないし、何かが変わるわけじゃない。でもなんとなくホッとした。
☆
そうして心疾患の人たちのツイートをチラチラ見るようになった私。
心疾患本人はもちろんだけれど、その保護者(主にお母さん)たちのツイートがよく目に入った。
患者会でお母さんたちと話をすることはある。
でもそこには患者である私への遠慮があるし、そこまで深く会話することもない。
Twitter上ではそのお母さんたちの、生の、重い言葉がたくさん溢れていた。
私の母もこんな気持ちだったのだろうかと想像してみたり、どうかお子さんが穏やかに成長できますようにと願ってみたり。
気がつけばそんなお母さんたちともお話しすることが増えた。
またやはり私が先天性心疾患なので、徐々に心疾患の人たちと関わることが多くなった。
心疾患をナシにしたかった私、ナシにはできないと開き直るとじゃんじゃん接触できた。そしてわかるなぁと感じたり、楽しかったり切なかったり。
今やnoteで先天性心疾患についてあれやこれやと好き放題書いているのだから、開き直りとは恐ろしい。
とはいえ、そもそも別人になりたかったのだ。
心疾患だけにとらわれることなく、いろんな人と知り合ってみよう。
ここはネットの世界。
難しく考えず、知りたいと思えば近づいて、違うなと感じれば離れたら良い。
性格上実際にそんな風に簡単に割り切れはしないのだけれど、そのくらいの気持ちでいようとTwitter上を泳いでいる。
おかげで夫婦二人暮らしの人や違う疾患や障害の人、学生さんと思われる人、ドラマや映画が大好きな人に推しへの愛が溢れる人、季節や空の美しい写真を見せてくれる人などなど、これまでの人生でおよそ関わることのなかった人たちと知り合った。
とても、楽しい。
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ちなみに、Twitter上でのぱきらは「葉生楽」と書く。
もちろん当て字だ。漢字で書くのが面倒だから自分でもひらがな表記にすることが多い。
葉っぱが気楽に上を向いて生きて行くようなイメージでつけた。
ぱきらは植物のパキラを拝借している。
パキラは別名で「Money tree(発財樹)」というらしく、お金をもたらす幸運の木という意味合いがあるそうだ。
生きるためにはお金が必要だよね!
一方で中南米など地域によっては、死を連想する忌まわしい植物と受け止められることがあるらしい。
(日本では育てやすく幸運の木というプラスなイメージが定着しているので、今大切に育てておられる人は気を悪くせずにこれからも育ててあげてください)
お金と死か。
なんだか私っぽい気がした。
漢字表記でもひらがなでもカタカナでも良い。
心疾患のない別人にはなれなかったけれど、私はこの「ぱきら」が気に入っている。