普通であること。普通を知ること。普通は変化するということ。
「生まれたときから心臓病って、どんな感じなの?」
数年前に入院した際、そんな風に親しくなった看護師さんに聞かれたことがある。
はて。どんな感じか。
私はそのとき少し考えて、思ったことを口にした。
「別に何も。だって私にとってはこれ(心疾患であること)が『普通』だから」
私にとっての「普通」
子どもの頃から
「いろいろと大変ねぇ」
と気の毒がられることは多い。
真実、大変には違いない。
いやマジで。
先天性心疾患(生まれたときから心臓病)の影響で、いわゆる「健康な人」が子どもの頃に経験することのない(する必要のない)いろんな出来事を経験している。
入院や手術だけに限らず、痛みや苦しみが伴う多くの検査をすることもある。
そしてそれらの出来事は一時的なものではなく、その生涯を終えるまで付き合って行くしかない(私以外の先天性心疾患の人も同様だろう)。
本来病院は人生の中で縁遠いところに位置するはずなのに、そうしたものがとても身近に存在するのだ。
逆に、本来子どもの頃に経験しているだろう出来事が経験できていない。
私個人でいえば運動全般の経験がなく、例えば友だちと大声でキャーキャー言いながらかけっこをしたことはない。
「風を切って走る」というものがどんなものかよくわからない。
子ども同士の本気のかくれんぼに参加したこともない。
修学旅行の類に、全工程参加した試しがない。
明らかなる経験不足だ。
こうした経験不足が、疾患を持つ子どもの心理の発達面で影響してしまう…という側面があるらしい。
一方で、個人的にはそうした子どもたちは同年代の子どもよりも冷静であり諦めが早く、随分と大人びていると感じている。
というか、そうならざるを得なかったのだと思う。
なにはともあれ、おそらく私を始めいろいろな疾患や障害のある子どもにとっては、そういう環境に身を置くこと自体が「当たり前」であり「普通」だ。
しんどいなと思うことが多くとも、今日は息切れが激しいなと感じようとも、それは生活の延長上にあり、特別ではない。
気をつけなきゃいけないと意識することはあるかもしれないが、それ以上に無意識に自分の体調をコントロールしようと努めている、それが「普通」だ。
むしろ息切れのない呼吸というのがどんなものか知らない。
だって私には歩けば息が切れることが普通なのだから。
そうした生活を不便だと思い、煩わしいと感じ、他者を羨ましいと思っても、私の普通はそうなのだ。
不便でいっぱいだ。
でも、不幸ではない。
これが私の世界で私の「普通」なのだ、不幸であってたまるか。
それでも私は、健康体ではない…普通ではない側だと他者から認識されているに違いない。
「普通」はたぶん、人それぞれ
住めば都ならぬ、住めば日常
そもそも普通とはなんぞや。
「普通」を考える上で何を引き合いに出すと良いのだろうとずっと考えた結果、「家」で例えてみることにした。
とはいえ、細かいところを突くとボロは出るに決まっているので、ふんわり受け止めてもらえたらと思う。
さて、私は結婚するまで一戸建てに暮らしていた。夫も同じ。
結婚して色々と検討した結果マンションで暮らすという選択をした。
一戸建てとマンションでは違いがたくさんある。
その一つとして、多くの場合マンションには管理人さんがいる。
マンション内にゴミ捨て場があり、ゴミの日は管理人さんが綺麗にしてくれる。
だから町内会のゴミ当番がいない。
今度はうちがゴミ当番か…夫に休んでもらう?なんて心配はいらない。ありがたや。
その一方、マンションには管理費というものが発生する。
それが管理人さんの給料になったり、将来的なマンション修繕積立費になる。
毎月なかなかの金額だ。
でもそのおかげで大掛かりなペンキ塗り替えなどが必要となっても、突然の出費に慄くことはない。
では一戸建てならどうなのか。管理費がなくマンションに比べ維持費が安いかといえばそうでもない。
突然給湯器が壊れたり水漏れが発生すれば業者を見つけて依頼して、何より一度に多くのお金が必要となる。加えて床下の防蟻処理を定期的に行ったりと、戸建てもなかなかに維持費がかかる。
それらの違いについては事前に調べればある程度知識として理解はできる。
私たち夫婦もそのあたりを良しとしてマンションにしたのだから。
しかしそうした知識として得られることとは異なる、住んでみて初めてわかることもある。
私はこれまでずっと一戸建ての一階で生活してきたものだから、マンションのベランダからの景色を見たときは驚いた。
我が家は高層階ではない。
にも関わらず、歩く人は小さく見えたし、電線の位置もこれまでと全く違っていた。
こういうことは、住んで初めてわかった。
そしてそういうアレやコレはそこに住み続ければ日常になり、「普通」になる。
私にとってベランダからの景色はすでにありふれたものになっている。
☆
生まれたときからマンション住まいのAさんがいたとしよう。
Aさんにとってはマンションが普通の住まいだ。
一戸建てに住む友だちの家に初めてお邪魔したときなどは、階段が家の中にあることに驚くかもしれない(平屋もあるけれど)。
一戸建てのBさんは一戸建てが普通だ。
初めてマンションを見たら驚くに違いない。
事実私は、生まれて初めて叔母が住むマンションを見た際に「おばちゃんち、でっかいねえ」と言ったらしい。
一棟丸ごと家という認識でいたのだろう。
そんなわけないが、「知らない」ということはそういうことだ。
普通=同じ にあらず
ではAさんとBさんが同じマンションの高層階と低層階に住んでいた場合はどうだろう。
AさんとBさんの「普通」は同じだろうか。
マンションという外枠が同じなだけで、高層階と低層階では大きく異なる部分がある。
それは眺望だ。
見たことはないものの、高層階からの眺めはため息が出ちゃうくらい素敵なところもあるらしい。
そこで育った子にとってはその風景が普通だ。もしかしたら高いところが怖くないままに成長するかもしれない(高所平気症なんて言葉もあるとか)。
低層階の子たちは眺望には大して興味がないかもしれないが、案外とそこから見える車や人の動きには敏感かもしれない。
同じマンションでも、見える風景は違う。それでもそこにあるのは当人たちにとっての日常であり、普通のことだ。
じゃあ同じフロアならどうか。
みんな一律の「普通」だろうか。
そんなことはない。
仮にフロア全てが同じ3LDKの間取りであったとしても、陽の差し方は少しずつ異なるだろう。
家の中にどんな家具を置くかによって、その暮らし方も違うだろう。
「○○タワー」という同じ属性で生活を送っていても、同じフロアだとしても、全く同じなんてものは、あり得ないのだ。
それでも人は自分の生活を日常だと、「普通」だと捉えるだろう。
大多数の人は自分の日常をおかしいと疑って生活をしていない。
☆
先ほど同じ属性でも全く同じなんてものはあり得ない、と書いた。
これは人に当てはめても言えるだろう。
私は先天性心疾患という疾患持ちであり、単心室という病名を持っている(病名は他にもあるけど割愛)。
私と同じ先天性心疾患で単心室の人がいれば仲間意識が生まれるし、私と同じような生活を送っているのかと気になる。
だが同じの人など一人もいない。
性別、年齢、住む地域、家族構成、生育歴、病院(主治医)との信頼関係の差、はたまた私のように就職しないままだった者がいる一方で就職した人もいる。結婚しているかどうか、女性なら妊娠・出産をしたかという差もある。
先天性心疾患という、単心室というカテゴリが同じなだけで、その状態や生活が全て一致するなんてことはない。
いわゆる健康な人でもそうだろう。
同じ学校を出ていても、同じ就職先だったとしても、同じような給与であっても、それぞれの暮らしがある。
そこがその人の普通であり日常だ。
「普通は」とよく言われるけれど、普通=皆同じ・皆一緒にはならない。
「普通」を知ること
「普通」なんていらない?
さて、「普通」という言葉にはいろんな意味があると考えている。
普通=一般的に
普通=標準的に
普通=常識的に
普通=社会通念として
これらに言い換えるほうがしっくりくることが多い。
そして皆が口にする「普通」は上記のような意味合いが濃いだろう。
だから「普通であること」がマジョリティであると捉えがちなんじゃないかと思っている。
皆とは違う、どうやら自分は普通じゃないようだという思いによって、苦しい気持ちになる経験は誰にでもあるだろう。
かくいう私もそれなりにあったし、今でも「普通に生きてみたかったな」と思うことはある。
先の章でも書いているように、私は普通は皆同じではないと思っているし「普通」は人それぞれにある考えている。
ならば世間で言われるような「普通」なんてそもそもなければ良いのではないか。
普通という考えがあるから他者と比較するし自分を苦しめる。普通なんていらない。
…そんなふうに思う人がいるかもしれない。
が、私は人が生きて行く中で「普通」という物の見方は必要だとも感じている。
例えば私。
先天性心疾患だとわかったのは、明らかに普通(一般的)じゃない心臓の構造をしていたからだ。
心臓について研究がされず、心臓の構造はきっと一人一人違うんだよ、フリーダム!なんて世の中だったら私は生後しばらくでこの世にいない。
医療は「普通ではないこと」を見つけてもらうことから始まると考えている。
普通ならできるハイハイができない。
普通なら既に立っているはずなのに立ち上がらない(3歳でようやく立った)。
普通ならかけっこしているのに走れない。
普通なら集団登下校できるのにできない(親による送迎が必要)。
普通なら、普通なら、普通なら……
普通じゃないことに対して私自身や親・きょうだいは悲しい思いや悔しい気持ちをたくさんしてきた。
「普通」が私や家族を縛る。
でも普通じゃないとわかっているからこそ、私にはなんらかのサポートが必要なのだと家族と自分自身、そして周囲は理解できる。
学校の送迎、学校内での配慮、車椅子の利用、大きくなれば就労支援、などなど…。
いわゆる健康な人で、普通の人であるなら必要のない支援だろう。
これらが考慮されずにあなたはあなた、私は私だからお好きにどうぞという社会であれば、私は生きていくことがままならない、あるいは随分と生きにくくなっているだろう。
普通ではないと知ることが「私なりの普通」を維持し続けていくために必要だという、なんだか矛盾しているような不思議な現象が起きている、と考えている。
「普通」を疑えるか
「普通」を考える上で、私はマンションや一戸建てといった住まいを挙げた。
では、普通ではなくなるのはどんな時だろう。
自分の暮らしはこれで普通だと思っているとする。
でも、どうやら何かがおかしい。
生活していると体調が悪くなる。
「もしかしたら普通じゃないのかもしれない」
調べると、欠陥住宅だった。
だから調子が悪くなる。自分の個人的な体調の問題ではなかった。
この家が普通ではないのかも…と疑い、調査に乗り出したから判明したのだ。
あるいは近所に引っ越してきた家族が一日中騒音を出し続けるとする。
その人たちにとってはそれが(嫌がらせというパターンも考えられるが)普通でも、自分たちにすればたまったもんじゃない。
自分たちは普通を維持していたのに、外からの要因で普通が脅かされた。
話し合いで解決することはあるだろう。けれども相手が譲らない可能性は高い。
彼らにとって自分たちの行動は正当であり、間違っているとは露ほども考えていないからだ。そんな事態が起こるかもしれない。
「普通」は案外あっさりと脅かされるし、また社会においては自分の普通が他者の普通とは異なることのほうが多いだろう。
☆
家と一緒にするなとお叱りを受けるだろうか、こうしたことは人にも当てはめることができると思っている。
例えば虐待されている子がいるとする。
その子は自分の生活(虐待されている状況)が普通なのだ。おかしいとは感じない。
ところが周囲との関わりによって「自分の今いる環境は、普通じゃないのかもしれない」と思う。
あるいは周囲がその子を見て「保護者との関わり方が普通じゃない」と感じる。
それがその子を救い、支援する第一歩となるだろう。
(すぐに支援ができるかという問題は今は置いておく)
今よく話題に出てくるヤングケアラー。
彼らは家族の介護や見守り等を常に行なっていて、それが日常となっている。
他の子たちと比べると自由時間が足りないようだと思っても、それらが彼らの「普通」なのだから、やり過ごしてしまう可能性は高い。
彼らは自分が「普通の状況ではない」と気がつけるだろうか。
周囲は彼らの「普通ではない」部分に目が行くだろうか。
すっかり定着したと思われるモラハラや毒親。
自分の日常が「普通ではない」と疑いながら暮らす人はいない。
普通ではないと気がついて初めて、自分の家族が自分の味方ではないことに気がつく。
それでも人は自分の「普通」が正しいと感じてしまうし、また家族が大きな影響力を及ぼしている場合はなおのこと自分の普通を疑うことはないだろう。
私は「普通」は人それぞれに違うものだと考えているが、その「それぞれの普通」が当人の暮らしを脅かすものであってはいけないとも考えている。
だから「私は普通じゃない」「普通じゃないかもしれない」
そう思ったときに「助けを求めても良い」と思って実行に移せる社会であって欲しい。
それは私のような疾患や障害を持つ人(子)やその家族も同じだ。
他の人のような「普通」でいたいと思っているけれど、それが叶うわけではない。
普通でありたい、みんなと同じように過ごしたいと願っても、自分と社会の「普通」に隔たりがあることは認めざるを得ない。
だからこそ手を貸して欲しいと、私なりの普通を維持するために力を貸して欲しいと声に出して良い。
すぐにいろんな支援と出会えるかは疑問だが、それでも。
自分の普通を維持するために声を挙げることを受け入れる社会が「普通」であって欲しいと願っている。
そのためには時として自分を苦しめるかもしれない「普通」という考え方を知る必要がある。
世間の普通を知ることが、自らを守ることに繋がるかもしれないから。
だから私は、「普通」という概念は必要だと考えている。
「普通」は変化する
「普通」でなくなる日
私はTwitterをやっていて、そこで病児や障害児のお母さんたちの言葉をちょくちょく見かけるようになった。
そうして母たちの多くが我が子が「普通」ではなかったことに心を痛めている。
自分が普通の母になれなかったことを嘆いている。
この気持ちは当たり前の感情で、母たちを批判するつもりは毛頭もない。
ただとても不思議な心持ちになるのだ。
そうか、このお母さんたちは世間で言われている「普通」の世界を生きてきたんだな、と。世界が一変するという言葉があるけれど、そういうふうに感じるのだろうか。
だとすればそりゃビビるだろうし、苦労は絶えないはずだ。
それでもお母さんたちは時間の経過と共にその子の疾患や障害を受容し、その子と共にいる生活が普通になるのだろう。
今までの「普通」がなくなり、新しい「普通」が始まる。
「普通」を知ってもらうのは難しい
さて、私は子どもの頃マンションを知らなくて、叔母の住むマンションを丸ごと一棟叔母の家だと思った、と書いた。
知らなかったから。
自分の中にある普通から外れたものがわからなかったから。
私は子どもで、だから笑って済まされることだったろうが、これと同じことは社会には山ほど溢れている。
よく、疾患や障害のことを理解して欲しいと望む声を耳にする。
最もだ。私も先天性心疾患のことがもっと社会に認知されて欲しいと思う。
が、最初から先天性心疾患のことを詳らかに理解してもらうなんてことは無茶な話であるとも思っている。
先天性心疾患同士でさえ100%「わかりあう」なんてことは難しいのに、いわゆる健康な人たちに全てを理解しろというのは酷な話だ。
疾患や障害のある子たちの保護者にしても、「健康な側」にいた頃に見聞きしていたこと・頭で理解していたことと実際は違うと感じているはずだ。
苦しい、悲しい、辛い…でもその中にも幸せはある。
こうしたことは当事者になって初めて、自分のこととして理解したに違いない。
それを第三者に丸ごと受け止めろというのは、かなり乱暴だ。
自分の「普通」は伝わりにくい。
もちろん、国に対してきちんと病・障害児(者)やその家族を一国民として支援してもらうことは必要で、そのための働きかけや社会への啓発は大切なことだ。
かつて多くの人たちの訴えでいろんな支援策ができたことを考えればその重要性がよくわかる。それらの支援を得ることによって、その人なりの「普通」を生きていける可能性が広がるのだ。
しかしそういう大きな理解と一個人に対する理解が同じとは言えない。
例えば先天性心疾患について聞き齧っている程度の人のほうが、案外と付き合う上で難しいことだってある。
その人にとって見本となる先天性心疾患患者がいるはずで、それがその人の先天性心疾患に対する基準だ。
「○○はできないんでしょ?」と聞かれて
「うん、そういう人もいるけど私はできるよ」と答えるとびっくりされるなんてこともある。逆もまた然り。
先天性心疾患のことを知って欲しいのか、「先天性心疾患のある私」のことを知って欲しいのか、それによってアプローチは異なるだろう。
わかって欲しいと思う。
でも自分の普通をわかってもらうのはかなり難しいことでもある。
言葉を尽くしてもなんだか疲労困憊して虚しくなるだけ…なんてこともあるだろう。
重ねて言うが、自分の「普通」は伝わりにくい。
「普通」はありふれた言葉なのに難しい。
「普通」は変わる
先天性心疾患はその昔、二十歳まで生きることが難しいとされてきた。
今は手術などの治療によって、成人を迎えることができる者が多くなった(もちろん今でも他界する人はいる)。
それに生存できたとしても治るということはなくて、一生病気とは付き合っていかなければならない。それでも確かに生きている。
先天性心疾患の普通(常識)は変化した。
一般常識と言われるものも変わってきている。
私(40歳代)が子どもの頃は専業主婦が多かったけれど、今は結婚や出産後も働く女性が多い。(だからと言って専業主婦を下に見る人がいるのはいかがなものかと思うが)
結婚したら子どもを産むのが普通という考えも…まあ、ジリジリではあるが変わってきている。子を成せない嫁はいらん!なんて表立って言う人は…うん、やっぱりまだまだいるけれど、それを訝しむ声の方が大きくなっている。
男性同士、女性同士のパートナーのいる人が、それを公にすることが(ほんの少しではあるけれど)できるようになってきている。
男の子はこうあるべき、女の子はこうあるべき、なんて考え方も緩やかに変わってきているはずだ。
時代背景や過去人々がどのような意識でいたかという研究は必要であるだろうが、その頃の意識をずっと持っていてやたらと「普通は〜」とかいう人は、自分の「普通」がいかに凝り固まっているか気づいたほうがいい。
私は「普通」は本来なかなかに柔軟性があるものだと思っていて、時代が変わるように、「普通」は変化していくと思っている。
私の「普通」も変化する。
以前であれば、街中にある本屋さんくらいならゆっくりではあるが自分のペースで店内を歩くことができた。
今は酸素ボンベをコロコロ引き連れながらでないと歩くことは難しい。
もともとspo2(血中飽和度)が低くはあったけれど、在宅酸素は必要としなかった。
(まあ、背景に在宅酸素療法を行える機材が今ほど整っていなかったこともあるだろう)
初めて医師から在宅での酸素を勧められたときは「ついに来たな」と思った。
そしてこれらが生涯続くのだなぁと思うと、少々うんざりもした。
私は出歩く際酸素ボンベをお供に連れて行くことが「普通」になった。
こうした変化はこれからも続くだろう。
こんなふうに淡々と書いているが、その実今までできたことができなくなるたび、とても悲しい。それでもきっと、最終的にその時点の「普通」を維持できるよう努力するだろう。
☆
穏やかに生活していると思っている人であっても、
ある日突然、病気になるかもしれない。
ある日突然、何かの事故や事件に巻き込まれるかもしれない。
ある日突然、災害に遭うかもしれない。
一方で、暮らしにくい家庭環境から脱することができるかもしれない。
暮らしやすいようサポートを受けられるかもしれない。
誰かと共に新しい「普通」を見つけることができるかもしれない。
人も社会も「普通」はいつだって変化する。
だから自分の今の「普通」が全て正しいなんて思わないほうが良い。
「普通」とあなたと
ものすごい長文になってしまった。
こんな長文、果たしてどれほどの人が読んでくれるだろう。
そう思いつつも、何回かに分けて投稿するのは避けた。
全体の流れとして読んでいただくほうが、私の言わんとすることが伝わるかもしれないと思ったからだ。
そして、ここまでの文章を通して最後に。
世間の「普通」を知ることが、あなたの困難を改善する一助となりますように。
一方で、世間の「普通」にあなたががんじがらめになりませんように。
あなたの「普通」が安定して続きますように。
社会の「普通」が良い方向に働きますように。
…現実はそれほど容易くはない。
私のこうした文章を馬鹿馬鹿しいと思う人はいるだろうし、真っ向から意見が対立する人もいるだろう。
それが当然だし、おそらく「普通」なことだ。
みんな同じ意見なんてものはあり得ない。
それでもこれが私の「普通」への想いだ。
あまり本を読んで来なかった私、いただいたサポートで本を購入し、新しい世界の扉を開けたらと考えています。どうぞよろしくお願いします!