共感しあえる相手と出会う場を
Twitterをされている方たちは経験済みだろう。
自分と同じような境遇の人と話をするのがなんと楽しいことか、と。
こうしたSNSは身近にそういう出会いの場を提供してくれるようになった。
SNSはもちろん素敵。
でも今回は違う視点で考えてみたい。
患者会のことを、書こうと思う。
ご存じのない方に説明すると、なんと私は先天性心疾患(生まれたときから心臓病)である。…知ってるか笑
私が会員として在籍している患者会について、今回は書きたい。
なーんだ、患者会のことならいらないかな、と思われたあなた。
患者会がどういうものか、チラリと覗いても良いじゃないですか。
こういう世界もあるのだと知っていただければ幸いです。
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さて、ここで私が言う「患者会」は「一般社団法人 全国心臓病の子どもを守る会」を指す。
この団体を「守る会」と略して言うのが患者会の中では一般的であるが、この記事では「患者会」と表記する。
また、私個人が患者会との関わりで得た経験や感想を書き記すだけなので、取り立てて患者会側へ許可は得ていない。
ということで、もしも患者会からクレームが来たらこの記事は削除します。
親たちのための会
私の母がこの会に入会したのは私が乳幼児と呼ばれる頃で、かなり昔のことになる。
母はとにかく情報が欲しかったのだと思う。
目の前の、泣かせずに育てろと言われた私を前にして。
この頃の患者会は「病児の親」がメインの会であった。
若い人たちには信じられないと思うのだが、私が産まれた時代、心臓手術のときに必要な血液はそう簡単に確保できるものではなかった。
「〇〇さんところの△ちゃんの手術があるらしい。必要な血液型は□だ」と聞けば、駆け付けることが可能なら他の病児の親が血液を提供しに行っていた。
また、今なら簡単(と捉えられている)手術でも、これまた簡単にその命が消えた。
昔の話をすると「すぐに過去の話をして偉そうな」と思われるかもしれない。私は昔の方が今より大変、ということを言いたいのではない。「大変さ」の中身なんてその時代時代で変わるし、何よりも人によって違うものだ。
私はただ、今を生きる若い人たちにも知っておいて欲しいのだ。
過去に生きた、多くの子どもたちや親たちのいろんな歴史の上に、今のあなたのお子さんやあなた自身がいるのだと。
ほんの少しで良いから知っておいてください。
でなければ、彼らの頑張りが報われない。
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私が初めて患者会のイベントに参加したのは確か小学校低学年のときだ。我が家の近所にある池を見て「わー、海」と喜んだ私を見て、父母は「こりゃやべぇ」と思ったらしい。
行き先が海の、患者会のキャンプに参加した。
患者会のキャンプには、医師と看護師が同行してくれる。これがとても安心感を与えてくれる。「何かあっても大丈夫」そう思えた。
…とか偉そうに書いているものの、正直内容はほとんど覚えていない。
ただスイカ割りをした記憶がある。スイカ割りで使う棒が私には重たかった。
ぼんやりとだが、全体的に楽しかった。海は大きかった。水は意外と冷たかった。
そして私の周りにはいろんな動きにくい子がいて、同じように車いすを使っている子もいたように思う。自分が周囲から「浮く」ということはなかったと記憶している。
親たちは、子どもたちが寝静まったら懇親会をした。
保護者同士で情報交換をした。お互いの子の病院の話、主治医の話をした。手術について聞いた。育てにくさを語った。周囲の理解のなさを嘆いた。入園、入学の難しさを話した。使える制度について教えてもらった。
ときには同行してくれた医師とも話をした。普段口にできない疑問を投げかけたりもした。
そして親たちは互いの健闘を祈った。
患者本人たちのための会
患者会には、成長することができた患者本人たちの会も発足した。「心臓病者友の会(略称:心友会)」という。
ここは先天性心疾患である当事者たちのための組織だ。
保護者から少し距離を置き、思春期に突入し、進学や就職、結婚、女性なら妊娠出産について、男性の場合はいつまで働けるのかが特に気になるらしい。病院について、体についてのあれやこれ…患者同士で話すことはたくさんある。やはり親にはわかりにくい、わからない当人同士でしか共有できないことがある。
患者会で面白いのは「患者あるある」や「患者ブラックジョーク」が通じるところでもあると私は思っている。
「ほら、私たち油断すると死ぬやん?」と誰かが言えば
「そうそう、体調崩すと坂道を転がるみたいに悪くなるよね~」といったことが、笑いながら言える。いわゆる健康な人相手だとこの手の話題は無理だ。速攻で引かれるか、かわいそうに思われる。
もうこれだけでも楽しくてたまらない。
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ところで私は、子どもの頃にキャンプに参加して以降、長い間私自身が患者会に参加することはなかった。
体調が落ち着いている間、患者会は必要ないのだ。
必要ないというよりも、目の前の生活で手一杯なのだ。患者会へ目を向けるゆとりはない。
そんな私が患者会に復帰(?)したのは10代後半だった。
私は体調を崩して入退院を繰り返し、通学制の高校を中退した後、家で大人しく過ごすことがほとんどとなっていた。こまごま用事はするにせよ、時間はたっぷりあった。自然と、患者会へと気持ちが向いていった。
そして私はある年の夏に、当事者たちの全国規模の交流会に参加した。
おそらく、100名近くが参加していたと思う。
世の中にはこれほど先天性心疾患をもつ大人がいるのかと驚いた。
私のように車いす移動をする人もいた。
そして何よりも衝撃を受けたのは、煙草は吸うわ、酒は(嗜むレベルを超え)がぶがぶ飲むわ、そんな人が少なからずいたことだ。
今、そのときの私の気持ちを改めて言語化すると、こんな感じ。
「え?何この人たち?怖い怖い、命縮めてるよ~」てなところである。
今振り返って思うのは、あの頃私は「生きながらえること」を主な目的として生きていた気がする。
それに対して、交流会で出会った人たちは「人生を楽しむために」生きていたのではないかと感じている。もちろん、いろんな思いを抱えながら。
一見無茶苦茶をしているかのような彼らは、それでも話をすれば私と何ら変わらない先天性心疾患の人だった。
さすがに煙草を吸うのは今でも馬鹿だなぁと思っているけれど、目の前で笑って悩んでする彼らは眩しくて最高だと、最終的には思えた。
これを機に、私には「少々の無理はしてもそれなりに楽しいことをする」という考えが身についた。少し、気楽になった。
共感できる喜びと、少しの悲しさと
一方で私がなんとなくモヤッとしたのは、他の人たちと自分との差だ。
病名は違うにせよ、同じような体格、同じような年齢、同じようなサチュレーションなのにどうしてこんなに違うんだろう。
この人は歩けているのに、私はどうしてこんなに動けないのだろう。どうして私は車いすを使わないとこんなに息が切れるのだろう。
また、働きに出ている人たちを羨ましいとも思った。
「元気そうなのに働いてないの?」とこの会の中で言われたときなどは、若さもあったからだか、穴が合ったら入りたい、いたたまれない気持ちになった(発言の主に悪意はない。ただの質問のつもりだったと思う)。
彼らは私がどのように日々を送ってきたのか、どのくらいしんどいのかを知らない。
一方で私は、彼らが「働く」上でどれほど苦労しているのかを知らない。
同じ先天性心疾患であっても、わからないことだってある。
私より体調が落ち着いている子を見れば、ときには心の中で羨ましいと感じた。
私と同じように車いすの子を見れば、申し訳ないけれどなんとなくホッとしたこともある。
そしてそういう気持ちは、もしかしたら患者会の会員さんなら誰しも抱いたことがあるのかもしれないと想像する。
「同じ病名でも、合併症の具合やこれまでの治療方法、生活環境によってそれぞれが全く違うのだ。一括りにしてはいけない」
それが学べただけでも、患者会にいる意味はある。
ああでも、きちんと言っておきたい。
ここで出会った人たちは、皆やっぱり先天性心疾患なのだ。それだけで十分、分かり合えることのほうが多い。モヤッとした思いよりもずっとずっと、彼らと話ができること、それが心地良いのだ。
SNSで十分じゃないの?
患者会へ入ることを躊躇われる親御さんや患者本人さんがいる。
大抵の人が「いや…そこまでじゃないのよね」とおっしゃるのだけど、私は「そこ」がどこなのかわからないでいる。
私は、入会を躊躇う人たちの心のどこかに「怖い」と思っている部分があるのではないかと勝手に想像している(でも見当はずれかも)。
患者会に入ることを「同類相憐れむ」ことだと揶揄された時代もある。あるいは「傷の舐め合い」とも。
そういう名残というか…なんだか、患者会に属することで自分が、我が子が世間から逸脱した者であるという烙印を押される気がするのかもしれない。もしくは、何らかのもの(これが何かは私にもわからないけれど)に負けた気になるのかもしれない。
私に言わせれば「傷を舐め合って何が悪い」である。
人は、「理解してもらう(いただく)」というのとは別に、ただ他者と共感しあう必要がある生き物だと、私は思っている。
同じような体験をし、同じような思いをして、それを分かち合う仲間が欲しい。
「わかってあげる」ではなく、「わかる」と言ってくれて笑って泣いてくれる人がいることが、どれほど心を強くしてくれるだろう。
その気持ちは、SNSを通して同じような体験をされている方なら、わかってくださるだろう。
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ならば、SNSで十分。
情報は他の同じような状況にある人に聞けば問題ない。共感だってできる。
そう考える方は多いかもしれない。
SNSでの出会いを否定するつもりは一切ない。
私もSNSが楽しいし、そうした出会いの中でnoteを始めようと思えたのだから、SNSには大きな力があると感じている。
そしてSNSは何よりも手軽だ。
親しくなればとことん仲良くなれる。
相手のことを好ましくないなと思えばブロックしてさようなら、だ。
対して患者会だとまず「入会」する必要がある。会費がいる。
名前だ住所だ、そして個人情報の極みである病名を知らせる必要がある。
これだけでハードルを感じる人もおられるだろう。
ただ、例えばSNSだと教えてもらった情報はあくまでも相手の経験や知識の延長線上のものなのだ。そこに相手の主観も入るので、フラットなものでない場合が生じる。
またSNSは情報収集というよりも、自分の心模様や意見を書くことで息抜きする要素が強いように思う。
もちろんその人のSNSなのだから、好きに書けば良い。
だか自分と「同じような状態」と思っていた相手の心模様や意見にこちらが揺さぶられるときがあるし、ズレを感じるときも出てくる。
これが重なると、共感を超えて、違和感になる。
SNSは便利。それは間違いない。
けれどもSNSは客観的になるのが難しく、少しばかり人の心に近すぎるのではないかというのが私の見解だ。
冷静な消化も必要
ところで、患者会の会員の元には、月に一度会報が届く。
その中では先天性心疾患児の親御さんや患者本人の様々な声や体験談が掲載されている。それを読むだけでもかなり勉強になる。
私が子どもの頃にはなかった技術がどんどん出て来ているし、親御さんの気持ちを知ることもできる。
他方で患者本人の声にうなずいたり、「この人はこういう努力をしているんだなぁ」と学べる。親御さんだとそうした大人の患者たちの「リアル」を知ることもできるだろう。
ここに掲載される体験談や想いは「他者が読む」ことを前提として書かれてあるので、ご自身のことやお子さんのことを冷静にとらえている文章が多い。
また、編集サイドでの校正等も入るので更に読みやすい文章へと変化する。
いうなれば「公の読みもの」となっている。
冷静な文章は、たとえ一時的にいろんな感情(自分との環境や状態の差に落ち込んだり)をもたらしたとしても、あなたの中でも冷静に消化されていく…はず。
個の力、団体の力
以前、Twitter上で患者会の話をされていたお母さんがおられた。
少しやり取りをする中で、そのお母さんが話されていたことが印象深い。
今わたし達が受けられている福祉は患者会が国に働きかけて実現したものも多いんですよね。患者会の頑張りの結果→福祉が充実し→結果的に患者会に入会する意識が失われるという…。「ネットには出回らない情報は、ネットにいては手に入らない」って、なかなか気付かないので、もっと気軽に…。
(ご本人には許可をいただいて転載しています)
ハッさせられた。お母さんすごい!の一言に尽きる。
その通りだと感じた。
今、恩恵を受けている制度の多くが、患者会が働きかけた結果である。
ただ黙っていれば医療制度や福祉制度が整うなど、ありえないのだ。
これは国が病・障害児者に対して理解がないのも一因であるが、そもそも病・障害児者が何を必要としているのか「わからない」のではと私は思っている。だから、そうした部分を指摘することも患者会の重要な役割なんだろうなぁと捉えている。
また、先述の会報では体験談といったもの以外にも、例えば「△病院の〇〇先生に最近の治療について話をうかがいました」といったもの、医療機器(ペースメーカー等)を扱う企業の話や各支部のうごき(こういう交流会を開催しましたよ~といったもの)、社会のうごき(今なら新型のアレのこと)をまとめてあるなど、内容は厚いと感じている。
まさに「ネットでは出回らない情報」である。
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SNSは個人の力が生きてくる、と私は思っている。
個人対個人のコミュニケーションを図る上ではとても優れている。
ここで知り合った人と最終的に会うまでになるかもしれない。かけがえのない存在も生まれるだろう。
対して患者会は、団体である強みがある。
例えば厚生労働省への交渉などは個人ではとてもできない。多くの会員の声や要望を吸い上げて国に意見するという動きは、団体であるからこそできるだろう。
「個」と「団体」の両方を、今の時代だからこそ上手に活用できればなぁと思う。
でもいろいろ難しいことを考えても始まらないので、先ほどのお母さんの言葉のように「気楽に」患者会に入ってくれる人が増えたら良いなとも感じている。
もっと早くに、出会いたかった
ここまで読まれたら、私が熱烈に患者会への入会を勧めているように思われるのではないだろうか。
正直そういう思いもないではない。
でも、何より私が一番強く言いたいのは「共感しあえる人との出会いの場を見つけて欲しい」ということだ。
私は、先述した交流会に何度か参加した。
見知った顔も出来始める中で、初めて交流会に参加する人を見ては全力でウエルカムな気持ちでいたのだが、そうして出会う彼らからよく聞かれた言葉がある。
「もっと早くに(患者会に)入れば良かった」
中には、自分は患者会に興味があったものの、親御さんの考えで長らく入会できなかったという人もいた(ご本人の知らないところで患者会と何かあったのかもしれないので、一概に親御さんを批判はできない)。
☆
患者会へ入会することで万事解決…なんてことを言いたいのではない。
というか、患者会は万能じゃない。
全国規模の交流会には体調、移動手段、金銭面等々…いろいろな事情で参加が難しい人もいる。
そのために会報があり、各都道府県支部ごとのイベントがあるのだけれど、支部によっては地域の会員数が少なくてそうしたイベントができないところもある。交流会等イベントに参加した経験のない会員さんも多いのではないか。
あるいは自分の求める情報が得られなかったり、あまり良い出会いに恵まれなくて失望するかもしれない。
もしかしたら、なんだかよくわからないまま幽霊会員になることもあるだろう。
それでもなお、患者会には魅力があると私は個人的に考えている(でも、やはりこれは人によると思う)。
先ほどの「もっと早くに…」という言葉の意味を考える。
そこにあるのは「何も考えずに話しても共感しあえる人」と出会えた、そのことに対して純粋に嬉しかったのだと思う。
もう一度重ねて言いたい。
私はあなたに「共感しあえる人との出会いの場」を見つけて欲しい。
何か辛いとき、頼れるような場(人)を見つけておいて欲しい。
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最後に。
病児の親御さんにお願いしたいことがあります。
親御さんはいつも「この子のために何ができるだろう」、そう思われることでしょう。
今はきっと、お子さんの成長を見守ることで精一杯。一日一日が戦いかもしれません。それでもお子さんの未来を考えているのであれば…。
今親御さんが抱えている悩みは、いつか本人のものとなります。
そのとき親が横に寄り添ってくれているのはとてもありがたい。
けれど親にはどうにもできないことだってあるのです。
どうか今目の前にいるお子さんが大きくなったときに、安心して笑って泣ける、同じような立場の人と出会える機会を、「可能性の種」を準備しておいて欲しいのです。それは患者会でもそうでなくても良いから。
そして、先天性心疾患である大人のあなたへ。
あなたにはきっと、いわゆる健康な友だちがいるでしょう。その人たちとの会話は楽しい。一緒にいると嬉しい。
私にもそういう友だちがいます。
でも。
自分以外の先天性心疾患の人との会話はホッと安らぎます。
この感覚を伝えるのは難しいのだけれど…例えば自分が入院している病室にお見舞いに来てくれても、居住まいを正す必要がなくて、点滴ルートを見られても気の毒がられないとか(…微妙に違う気もする)。
とにかく、私はあなたにこういう気楽さもあるのだと知って欲しい。
あなたがいろいろな先天性心疾患の人と出会い、話ができたら良いなって思っています。
どうか孤独にならないで。
一人きりで抱え込まないで。