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最後に何ができるのか

日々、命と向き合っている人たちがいる。
家で、病院で入院して、手術等の治療をして…患者として。その家族として。
あるいは患者を救おうと研究して、実際に処置をして…医療者として。
そんな「生きる」ことに全力で取り組んでいる人たちが多くいる中、その裏返しとなる「死」について扱うことを許していただきたいと思います。

決められない

私は20代の頃から、漠然とではあるが自分が死んでしまったら献体しようと考えていた。
それでなんらかこれから先を生きる先天性心疾患の役に立つなら本望ではないか。そんな気がしていた。

献体とは、医学・歯学の大学における解剖学の教育・研究に役立たせるため、自分の遺体を無条件・無報酬で提供することをいいます。
※「公益財団法人 日本篤志献体協会」ホームページ内  『献体とは』より抜粋。


両親に明確にその意思を示していたかは覚えていない。でも献体について母と会話した記憶はあるので言ってたかも。
もし娘から早々とそんな宣言をされていたとしたら、親としてはなかなか酷であったろうと今は思っている。

そんな私、少しずつ考え方が変わっていった。

年齢を重ねるごとに、自分の身体に執着が湧いたのかもしれない。
また、入退院を繰り返す中で「あまり長く病院にいたくないな。それに、死んだ後までメスを入れられるのは嫌だな」と感じた部分もある。

あるいはいつ頃か忘れたが、献体されたご遺体を学生が粗末に扱ったという事例(事件にはならなかった)が報道され、死後とはいえそんなのはごめんだと思ったことも関係しているかもしれない。

何か決定的なことがあったわけではないけれど、献体に対してモヤッとし始めたのだ。

もちろん、これまでに献体をされた多くの方に対する敬意の念は薄れていない。そういう人たちがいたからこそ、私の今があるのだもの。

それに、実際に献体をした人を知っている。
私よりもずっと若かった。
若くからそのように決意されていたことを、ただただすごいと思っている。
そしてその遺志を尊重されたご家族も。

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なんだかんだと献体についてはそのまま放置していた。

そして結婚してから「ここはきちんと意見のすり合わせをしておかねば!」と夫に献体のことを話した。
返ってきた言葉は「うーん…嫌、かな。早く家に連れて帰りたい」だった。

私もなんとなくそうだよね、と思った。
献体となると、遺体が遺族に返還されるまで1~2年はかかると聞く。
最大のネックはそこだろう。
(葬儀が行われた後、ご遺体が病院へ戻るのが一般的なようなので、お別れが済んでいると言えば済んでいる)

夫には折に触れ話しているのだが、私は家でぽっくり死ぬことはできないと思っている。
まあ突然倒れてそのまま…ということもなくはないだろうけど、おそらく
体調を崩す→緊急入院→いろいろ処置→及ばず死亡
が妥当なところだろう。
本当は夫に手を握ってもらいながら…とかがカッコ良さそうではあるものの、現実的ではない。
ICUだHCUだのにいるとすれば、上手に?面会時間に旅立てるとは限らない(病院側の計らいで最期まで一緒にいさせてもらえるケースはある)。
「死後、なるべく早く夫の元に戻りたい」という気持ちになった。

結局、献体登録はしていない。

そして今

もう何年も献体については考えたことがなかった。

けれど。
今回の新型肺炎に伴い、ぼんやりまた「献体」という文字が私の中で生まれ始めた。

志村けんさんや岡江久美子さんを始め、新型肺炎で他界された方は入院中誰とも面会できず、病院で最期の対面も許されないままにご遺骨となりご家族の元へ戻るという、とてもとても悲しい事実をおそらくほとんどの人がご存じだろう。

もし、私が感染したら?
残念ながら死へと一直線だと思っている(もちろん最大限抵抗はする。先生方の手を煩わせても、粘りに粘る)。

夫と面会もできないまま、結局骨になって夫の元に戻るなら、解剖してもらう方が少しは貢献できるんじゃないか。
そんな風な想いが湧いている。

果たして感染症で死亡した患者を解剖したいと思う医師がいるかどうか、できるのかという問題はさておいて、「未知なる感染症で死亡した先天性心疾患患者の臓器」は、もしかしたら興味深いものではないだろうか。

そして今後、循環器系の疾患を持つ人たちが新型に感染した場合の治療に役立つのではないかと、ほんのりと考えが浮かんでいる(どういう経緯で臓器がだめになるかとかがわかるなら、対処法も考えられるかもしれない)。

「でもなぁ…骨になっても良いから、早く夫の元に帰りたいよなぁ」
そんな気持ちもある。

何よりも今大切なことは、感染しないことだ。
わかっている。気を揉む必要はない。
そしてこれは一時的な気まぐれなのかもしれないとも思っている。

悩むくらいなら、答えはNOなのだ。
私はきっと、やはり献体登録できないまま過ごすことになるだろう。

ならばこんな話をわざわざ書くことはないのでは?と思われるだろう。
その通りだ。
それでも、口にしてみたかった。


「私が最後にできることって、なんだろう」って。


私の独りよがりだから

私がこんな風に書いたからと言って、今これを読んでくださっている方たちが「え?死後のことを考えとかなきゃいけないの?」とか思う必要は全くない。
(考えおくこと自体はとても大切だと思うが、強要されるものではない)

私はたぶん、自分に自信がないのだ。

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私は、自己肯定感は低くないと思っている。
むしろ自分のことは好きだし、よく頑張って生きていると褒めてやりたい。

でも、自己評価は低い。
あまり人さまの役に立っている気がしないのだ。

医療の向上という意味では貢献していると自負している。

「なかなか思うように成果が出ない厄介な患児(患者)」でもあるはずなので、これまで本当に貢献できていたかどうかはわからない。

でもカルテが紙の時代であった頃、私のカルテにはでかでかと赤い文字(判子だったかもしれない)で「永久保管」と書かれていた。

少し間違った認識だとは思うものの、私はそれを誇らしいと思っていた。

紙のカルテから電子カルテになり、かつ結婚して転院した私のカルテが本当に永久保管されるなんて今は考えてないけれど、幼かった私は当時「『永久』なんてすごい!私が死んじゃってもカルテがあるってことでしょ!」と感じていた。

そして「学会発表のために検査するから学校休んでもらえないかな?」という、今ならちょっと問題になるのではないかと思われるお願いを医師(主治医にあらず)から頼まれたこともあり、医師たちからすれば興味深い素材ではあったと思う。

この先も、私は私が「生きる」ことで、なんらか貢献できるのだと信じている。

でも、それはそれ。

心疾患であることを私から取り除いたとき、例えば仕事をしている(いた)とか、子を育んでいる(いた)とか、どっしりとした「お役立ちポイント」が私にはない。
(ここで書いているのは生産性の有無とかいうしょうもないことではなく、私の感覚の中で「私が人の役に立てたか」と言う意味だ)

けれど結局、私は心疾患に纏わることでしか役に立ちそうにない。

だから私は、献体を人生最後のお役立ちポイントとして利用したかったのだ。
そして、例え私に聞こえないとしても、誰かに褒めてもらいたかったのだ。
大変に身勝手だし、独りよがりも良いところだ。

だからあなたが引きずられて何かせねばと悩む必要はない。

そしてお子さんを亡くした親御さん。
もしこれを読まれて、お子さんを亡くしたときのことやあれこれを想起させて悲しい気持ちにさせてしまったならば、ごめんなさい。

私はあなたのお子さんよりも長く生きた分だけ、この体を活かさなきゃと思っている。
それがまだ生きながらえている私の役割ではないかと考えている。


一つだけ強く言っておきたいことがある。
私は、私より先に旅立って行った多くの先天性心疾患の人たちが、献体をしていないからと言って役立っていないなんて微塵も考えていない。
彼らはいろんなものを遺してくれている。
それが何かを伝えるのはとても難しいのだけれど、私は見送ってきた人たちを思うとき、いろいろと想いを馳せた後に、最終的に今目の前にある現実を、日常を送ろうとまたひとまず顔を上げることができる。

献体はあくまでも一つの手段であり、私が妙に献体にこだわるのは、昔から考え続けていた私個人の問題なのだ。
他の人には決して当てはめないで欲しい。

献体以外で私ができること。
なんだろうなぁ。

焦る必要はないし、私が思うほど、私は世間から求められてはいないだろう。
(なんだか卑屈な感じに受け取られるかもしれないが、卑屈になっているわけではない。世の中は広くて人間もたくさんいるから、私が一人ジタバタすることもないなと俯瞰している)

それでも何かを。

そんなことを、「献体」という二文字と共にここ数週間で考えている。


ああ、そういえば今日は友人の命日だ。
あの子ならどう言うだろう。
「はー、そんなこと考えてるんだ。ぱきらちゃんってやっぱりちょっと変わってる」
とか、大きな目を更に大きくして言われそう。

うん、変わってると思う〜。
でも私のそんなところも、あなた嫌いじゃなかったでしょ?笑

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ぱきら
あまり本を読んで来なかった私、いただいたサポートで本を購入し、新しい世界の扉を開けたらと考えています。どうぞよろしくお願いします!